その晩、キャサリンの家に向かって歩きながら、キーティングは、彼女に会った数回の出来事について思いをめぐらす。ニューヨーク暮らしの中で、キーティングが思い出せる唯一の日々とは、キャサリンと会った日々だった。
キャサリンが家にキーティングを迎え入れ、彼女の叔父のアパートの居間のまん中に案内したときに彼が目にしたのは、カーペットの上に広がったおびたたしい数の手紙だった。他に、卓上タイプライターと新聞と鋏にと箱が何箱かと糊の容器もあった。
「もう大変!」とキャサリンは言った。いっぱいの手紙類のまん中に、くたびれたように正座の形にすわりこんだ。
キャサリンは、まったく警戒心もなく無邪気に微笑みながら、キーティングを見上げる。両手を上げ、カサカサ音をたてる手紙の白い山の上に広げる。彼女は、もう20歳だけれども、17歳の頃と全く変わっていない。
「腰かけて、ピーター。あなたが来る前に片づけておきたかったのだけど、無理だったみたい。これ叔父あてのファンレターや、新聞の記事の切り抜きなの。叔父の書いたものなの。分類して、返事書いて、ファイルして、お礼状書いて、それから・・・ねえ、叔父に 来る手紙を読んでみる?素晴らしいのよ。そこに立ってないで。腰かけて下さる?すぐ終わるから」
「それは、もう終わったの」とキーティングは言う。キャサリンの腕を取り、彼女を床から立ち上がらせる。椅子に座らせる。
キーティングは、キャサリンを抱いてキスした。彼女は、頭をキーティングの肩に置き、嬉しそうに笑う。キーティングは言う。
「キャティ、君に話したいんだ。今日はとてもいい日でさ。今日の午後、ボードマン・ビルが公開されたんだ。ほら、ブロードウエイを南に行ったところの、22階建てのゴシック式の尖塔があるやつね。フランコンが、消化不良起こしたから、僕が代理で行ったのさ。とにもかくにも、僕が設計したんだからな、あのビルは・・・ああ、君にそんなこと言っても、わかんないかなあ」
「あら、わかるわ、ピーター。あなたの設計した建物はみんな見てきたのよ。写真も持ってるの。新聞から切り抜いたの。スクラップブックも作っているのよ。叔父のと同じようにね。ねえピーター、それって、素敵なのよ!」
「何が?」
「叔父様のスクラップブック!それとファンレターね・・・これ全部・・・」
キャサリンは、床の上に散らばる書類の上に両腕を伸ばす。まるでそれらを抱き締めたいと思っているかのように。
「考えてもみて。こういうお手紙、アメリカ中から来るの。全然知らない人たちよ。でも、その人たちにとっては、叔父は大きな意味があるのね。だから、叔父の手助けになろうと、私はここにいるの。私の責任は重いわ!とっても感動的で、とっても大きなことだわ。私たちに起きるようなすべてのささやかなことが・・・それがアメリカ全体に関係するのよ!」
「ええ?叔父さんが君に、そう言ったのかい?」
「叔父は、何も私に言わないわ。でも何年も叔父と暮らしていれば、そんなのわかるのよ・・・叔父の私利私欲のなさは素晴らしいわ」
キーティングは怒りたかった。しかし、キャサリンのキラキラ輝く微笑みを目にすると、彼女の新しい種類の情熱を見ると、彼も微笑みを返すしかない。
「キャティ、それも似合っているけどさ、ほんとに似合っているんだけど、着るものについてもう少し勉強すれば、君はもっと綺麗になるのになあ。近いうちに、君をまるごとつかまえて、いい洋裁店に引っ張っていくぞ。いつかガイ・フランコンに会ってもらいたいしね。君は、あの人のこと好きになるよ」
「そう?会っても好きにならないだろうって、前にあなた言ってたのに」
「僕、そんなこと言ったっけ?うーん。あの頃はフランコンのこと知らなかったしね。すごい人だよ、あの人。君には、みんなに会ってもらいたいな。君は・・・ねえ、どこに行くの?」
キャサリンは、ピーターの腕時計が示す時間に気がついて、そわそわと離れようとする。
「もう9時近いわ。エルスワース叔父様が帰って来る前に、私これすませておかないと。11時までには帰って来るもの。今夜は、労働組合で講演しているの。あなたとおしゃべりしながら、やっていてもいいかしら?気になる?」
「気になるよ!君の叔父さんのファンなんかどうでもいいよ!叔父さんに自分で整理させなよ。ちゃんとここにいなよ」
キャサリンはため息をついて、素直に、また頭をキーティングの肩にあずける。
「エルスワース叔父様のことを、そんなふうに言ってはいけないわ。あなたは、叔父のこと全然わかってないのだから。叔父の本を読んだことあるかしら?」
「うん!読んだことあるよ。どこに行っても、君の叔父さんの忌々(いまいま)しい本以外の話は何も聞いたことないみたいに話しているのだからさ、みんな」
「あなた、まだエルスワース叔父様に会いたくない?」
「なんで?どうして、そんなこと言うの?僕は会いたいよ、そりゃ」
「あら・・・」
「どうしたの?」
「前は、私を通じて叔父に会うのはいやだって言ったのに」
「そうだった?どうして、君は、そういうどうでもいいことばかり憶えているのかな?」
「ピーター、私はあなたに叔父と会ってもらいたくないの」
「なんで?」
「わからないわ。だけど、今は会ってもらいたくないの。なぜだか、わからないけれど」
「そのことは忘れようよ。時が来れば、叔父さんには会うさ。キャティ、聞いてよ。昨日さ、僕は自分の部屋の窓のところに立って、君のこと考えていたんだ。君がここにいればいいなあって、ものすごく思ったものだから、電話しそうだった。でももう遅かったしね。あんなふうに、君のこと思うと、寂しくなるよ、僕は・・・」
キャサリンは、両腕をキーティングの首に回して、じっと聞いている。それから、キーティングは、彼女が急に彼の背後に目をやり、あわてて口を開けるのを見る。彼女は飛び上がり、部屋を大急ぎで横切る。両手と両膝でよつんばいになり、机の下に落ちているラベンダー色の封筒を拾う。
「いったいどうしたの?」キーティングは怒って訊ねる。
「とても大事な手紙なの」とキャサリンは応える。まだ膝まずきながら、小さなこぶしの中にしっかりと封筒をつかまえて言う。
「とても大事な手紙なの。そこにあったの。貧しい未亡人からの手紙なの。お子さんが5人いて、一番上の息子さんが建築家になりたいというので、エルスワース叔父様が奨学金を手配してさしあげるつもりなのよ」
「やれやれ」とキーティングは腰を上げて言う。
「こういうことは、もう沢山だよ。ここから出ようよ、キャティ。散歩しようよ。今夜は、外が綺麗だよ。ここにいると、君はうわの空みたいだもの」
「あら、素敵!散歩に行きましょう」
外では、霧のような雪が降っている。乾いた細かな重さのない雪だ。雪は狭い水槽のような街路を満たしている。
キャサリンの腕がキーティングの腕に押しつけられている。ふたりはいっしょに歩く。雪で白くなった歩道に茶色のしみのような足跡が長々と続いている。
ふたりは、ワシントン広場のベンチに腰かける。雪が広場を閉鎖している。広場の回りの家々からも、もっと向こうに広がる街からも、ふたりを隔絶させている。
影のように見える広場の凱旋門(がいせんもん)の向こうから、自動車のヘッドライトの明かりの小さな輪が、ふたりを通過して行く。鋼鉄のように白色のライトもある。緑色のライトも通り過ぎる。濁った赤色のライトも過ぎて行く。
キャサリンは、からだを丸めてキーティングに寄り添っている。キーティングは街を眺めている。彼は、いつでも街が怖かった。今も怖い。しかし、今は弱々しいながらも、ふたつの防備がある。雪と、そばにいるこの娘だ。
「キャティ、キャティ・・・」キーティングはささやく。
「愛しているわ、ピーター・・・」
「キャティ」キーティングは、躊躇(ためら)わずに誇張することもなく言う。自分の言葉を確信していたので、自分を興奮させることなど必要なかったから。
「僕たち、婚約しているよね?」
キーティングは、キャサリンがうつむくのを目にする。それから、彼女は顔を上げる。「ええ」と。
キャサリンは、静かに答える。あまりに厳(おごそ)かに言うので、彼女がこの問題に無関心であるかのように聞こえたぐらいだ。
キャサリンは、将来についてキーティングに問うことを、それまで決して自分に許さなかった。質問するということは、自分がキーティングを疑っているということを告白することになるから。
しかし、自分が「ええ」と答えたとき、彼女は気がついた。自分がこの瞬間をずっと待っていたということを。またあまりに喜ぶと、その幸福を粉々にしてしまうだろうと自分が感じていることも。
キーティングは、キャサリンの手を強く握る。
「1年か2年以内には結婚しよう。僕が独立して事務所が開けるようになったらすぐに。母のことは気にしなければならないけれど、1年もすれば大丈夫さ」
キーティングは、自分が感じていることへの驚きを台なしにしないように、できるだけ冷静に、できる限り事務的に話そうと努める。
「待つわ、ピーター。急ぐ必要はないわ、私たち」
「誰にも言わないでおこうよ、キャティ・・・僕たちだけの秘密。それまでは僕たちだけの・・・」
実は、他の思いが、キーティングの心に浮かんでいた。どういうことなのだろうか・・・キャサリンと結婚するという考えなどは、今まで僕の頭に浮かんだことさえなかった・・考えたことすらなかった・・・
そう思うと、キーティングは我ながらぎょっとする。しかし、やはり彼は認めざるを得ない。自分はキャサリンとの結婚は今まで考えたこともなかったということを。完璧に自分の心に正直になれば、確かにそうだった。たとえ、そのことがいかに彼を驚かせようと、それは確かなことだった。彼は彼女を脇に押しやり、怒って言う。
「キャティ、婚約のことを黙っているのは、あの偉大なる忌々しい君の叔父さんのせいだとは思わないよね?」
キャサリンが笑う。その笑い声は軽く屈託がない。キーティングは、キャサリンから自分が擁護されていると感じる。
「やだわ、ピーター。もちろん叔父には気に入らないことでしょうね。だけど、そんなこと何も気にすることないでしょ?」
「叔父さんは気に入らない?なぜ?」
「叔父は結婚というものを認めてないようなの。いつも私に言うのよ。結婚というのは時代遅れだって。私有財産制度を永続化する経済的装置だって。もしくは、ともかく叔父が好きじゃない何かみたいなものらしいのよ、結婚は」
「おやおや、実に素晴らしい考えだね、それは!そうかどうか叔父さんに見せてやろうよ、僕たち」
キーティングは自分への疑惑を拭い去ろうとする。
自分が実はキャサリンと結婚するなんて考えたこともなかったということは、別の女性との結婚の可能性を考えていたからではないのか。たとえばフランコンの娘との結婚とか・・・
自分への疑惑をキーティングは忘れることにする。
僕が、実はキャサリンとの結婚を考えたことがなかったということなど、どうでもいいことじゃないか。僕は、キャサリンと婚約したんだから。
でも、他の誰からも干渉されないように、キャサリンへの自分の気持ちを、彼女との婚約を、秘密にしておこうと、キーティングは思う。
と同時に、キーティングは思う。なぜ、僕はキャサリンとの婚約を秘密にしておくことを切実に望むのだろうか・・・それは、かなり奇妙なことではないのか・・・
キーティングは、頭をのけぞらせる。唇に雪の欠片(かけら)がつくのを感じる。
それから彼は顔をもとにもどし、キャサリンにキスした。彼女の唇の感触は柔らかく、雪のため冷たい。キャサリンの唇は半ば開かれ、瞳は丸く頼りない風情である。まつげがきらきらしている。
キーティングは、キャサリンの手を取り、掌を上にして、じっと見つめる。彼女は黒い毛糸の手袋をしている。指は子どもの手のように不器用に開かれている。手袋に落ちて溶けた雪がビーズ玉のようだ。自動車が通り過ぎるたびにヘッドライトに照らされ、毛羽立った手袋に落ちた雪が光を放って輝く。
第1部(17) おわり
(訳者コメント)
キーティングのクズっぷりが、よく描かれているセクションだ。
キャサリンとの結婚など考えたこともないのに、キャサリンに結婚を申し込む。
それも、「結婚してください」と、はっきり言うわけではない。
「僕たち、婚約していたよねえ」という言い方だ。
キャサリンと共にいる時間が、本当は1番幸福で、自分自身でいられるくせに、キーティングはそのことに気がついていない。
他人の目に映る自分自身のことばかり気にしているキーティングは、ニューヨーク暮らしも3年経過して、大学卒業直後には、まだ持っていた正気を失っている。
虚栄と見栄と体裁という自己欺瞞だけで生きている。
ほんのひとかけらの誠実さもない虚飾の生き方。
キャサリンに対して、いかに重大なことを言ったのか、全くわかっていない。
このキーティングのクズっぷりは、さらにエスカレートして行く。
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