第1部(15) キャメロン病に倒れる

1925年2月に、ヘンリー・キャメロンは、実務から引退した。

この1年間、その日が来ることをキャメロンは知っていた。そのことをロークに話したわけではなかったが、ふたりともそれはわかっていた。それでも、できるだけ長く事務所を維持すること以外は、何も期待せず、建築事務所の看板を掲げていたのである。

この1年間、5本の指にも満たない数の設計料が事務所にしたたり落ちて来てはいた。カントリーハウスとか、ガレージとか、古いビルの改装とか。

仕事なら何でも請け負った。しかし、そのしたたりも、ついには止まってしまった。したたりが通ってくるパイプが干上がってしまった。

製図係のシンプソンと受付にいた老人はかなり前に解雇されていた。ロークだけが残っていた。

その年の冬の晩は、キャメロンが、じっと座り込み、からだを机に突っ伏して、両腕を放り投げるように伸ばし、頭を腕の上に置いているのを、ロークは見つめていた。電気スタンドの下には酒のびんがギラギラ光っているのを、ロークは見つめていた。

2月のある日のことだった。キャメロンが何週間もアルコールに触れなかったときのことだった。キャメロンは棚にある本を取ろうとして、ロークの足下に崩れ落ちた。突然に、あっさりと、ついに。

ロークは、キャメロンを家に連れて帰った。医者は、キャメロンが寝床から離れることは彼への死刑宣告となると診断した。キャメロンにはわかっていた。枕にじっと頭を乗せ、手をからだの両脇に素直にだらりとたれさげて、目はまばたきもせず虚ろだった。

キャメロンは言う。

「俺のかわりに事務所を閉めてくれよ、ハワード」

「わかりました」とロークは答える。

キャメロンは目を閉じる。他の何も言うことがないようだ。

ロークは、一晩中キャメロンの枕元に付き添っていたが、老いた彼が眠っているのか起きているのはわからなかった。

連絡を受けて、キャメロンの妹というのがニュージャージーのどこかからやって来た。彼女は、白髪の おとなしそうな小柄な老女だった。印象の薄い顔だちをしている。無口で忍耐強そうであった。

キャメロンの妹には、乏しいながらいささかの収入があった。ニュージャージーの自分の家に兄をひきとる責任を当然のことと考えていた。彼女は未婚だったので、世の中に兄以外の身寄りもいなかった。その重荷を、その婦人は嬉しいとも、煩わしいとも思っていなかった。彼女は、もう何年も前に、あらゆる情緒を感じる能力を喪失してしまっていたから。

ニュージャージーへと立つ朝、キャメロンはロークに、夜に書いておいた一通の手紙を渡した。背中を枕で支え、古い製図板をひざの上に置いて、苦痛をこらえながら書いた手紙だ。ある有名な建築家あてのものだった。ロークに仕事を紹介してもらえないかと依頼するものだった。ロークは、それを読み、キャメロンの顔を見ながら、自分の手元には目もくれず、その紹介状を斜に破った。ふたつに裂いたものを重ねて、さらに引き裂いた。

「駄目です。こういうことを、あなたは頼んではいけないんだ。僕のことは心配しないで下さい」と、ロークは言う。

キャメロンは頷(うなず)いた。長いあいだ黙っている。

「事務所は閉めてくれ、ハワード。家賃がわりに、家具は家主に差し押さえさせておけばいい。俺の部屋の壁に張ってある絵だけはずして、俺のところに送ってくれ。それだけでいい。あとは全部燃やしてくれ。全部の書類にファイルに図面に契約書に、何でもかんでもだ」

「わかりました」とロークは答える。

キャメロンの妹が、病院の担当者と担架とともに病室にやって来た。マンハッタンから対岸のニュージャージーまでは、フェリーに乗って行く。救急車が、キャメロンとロークとキャメロンの妹を港まで運ぶ。フェリーへの乗降口のところで、キャメロンはロークに言う。

「もう君は帰れ」それから、彼はこうつけ加える。

「会いに来てくれ、ハワード・・・しょっちゅうでなくていいから・・・」

ロークは、引き返し去って行く。

キャメロンは桟橋(さんばし)のところまで運ばれて行く。やっと、空が白みがかってくる。早朝だ。大気の中には、海の冷たい腐った臭いが漂っている。一羽のかもめが街路をすれすれに急降下していく。漂っている新聞紙のような灰色のかもめだ。朝露で濡れた部分が筋になっている石の舗道にギリギリ触れるぐらいのところまで、かもめは低く飛んでいる。

その晩、ロークは、キャメロンの閉鎖された事務所に出かけた。電燈はつけなかった。キャメロンの部屋のフランクリン・ストーヴに火を入れた。

まずは、ひきだしというひきだしを次々と空っぽにした。中身は確かめもしないで、どんどんストーヴの火にくべた。

様々な書類が、静寂の中で乾いた音をたてた。かすかなカビ臭さが、暗い部屋に立ちのぼる。火はシューシューと音をたて、パチパチとはじけた。明るい光線状にはねた。ときおり、端が黒焦げになった書類の白い欠片(かけら)が、炎の中からひらひらと漂い出てくる。ロークは鋼鉄の定規の先端で、それを炎の中に押し返す。

書類の中には、キャメロンが設計した有名な建物の図面が混じっている。建てられなかったものの図面もあった。梁を示す薄い白い線が写った青写真もあった。この建物は、まだどこかに建っているのだろう。

有名な人物の署名がなされた契約書もあった。ときおり、黄ばんだ紙に書かれた建築費の総額であろう多額の数字が小さな爆発のような火花の中から、ぱっと浮かび上がり、また火の中に消えていった。

古いフォルダーの中に挟まれてあった手紙類の中から新聞記事の切り抜きが落ちた。床の上にひらひらと落ちた。それは、すでに乾ききっている。ぼろぼろに砕け易くなっていて、黄ばんでいる。ロークが指でつまむと、折り目のところで破れてしまった。1882年の5月7日のヘンリー・キャメロンのインタヴュー記事だった。そこには、こうあった。

「建築は商売でもなければ出世のための仕事でもありません。地上の存在を正当化する歓びを求める聖戦であり献身です」と。

ロークは、その新聞の切り抜きも火に投じた。次のフォルダーの処理にかかった。キャメロンの机から短くなった鉛筆も一本残らず集めた。それらを火にくべた。

ロークは、ストーブを見下ろすように立っている。身動きしない。しかし、ストーブの燃えさかる火を見ているわけではない。ただ炎の動きを感じている。彼の視野のすみに、炎がかすかに見える。炎が震えているのをロークは感じている。

ロークの目の前の壁には、まだこの地上に建てられていない高層建築の完成予想図が貼り付けられている。

キャメロンが建てたくて建てることができなかった建築物の完成予想図をロークは、長い間見つめていた。

 第1部(15)おわり

(訳者コメント)

ヘンリー・キャメロンがとうとう倒れてしまった。

アイン・ランドは、情感を出すのが上手い作家です。

このセクションのように、傷つき倒れ、マンハッタンの対岸のニュージャージーの妹の家に引き取られて行くキャメロンをロークが見送った朝の情景は心に残る。

たったひとりで、真夜中に、ストーブの炎だけを頼りに、キャメロンの設計事務所の整理片付けをするロークの描写も心に残る。

生涯独身だったキャメロンと天涯孤独のロークは、建築を通じて結ばれた聖家族だ。

そのたったひとりの家族と(ひとまず)別れたロークの孤独。

働き学ぶ場所を失くしたロークの寄る辺なさ。

しかし、キャメロンが建てることができなかった高層ビルの完成予想図を見つめるロークの心には、自己憐憫も悲哀もない。

ロークの頭の中には、自分がいつか建てるべき建築物のイメージが立ち上がっているのだろう。

写真は、映画「摩天楼」の中のロークだ。

キャメロンの事務所の整理をしているときに、キャメロンの描いた高層ビルの図を見つめるロークのシーンだ。

このシーンは、原作通りに、ストーブの炎に照らされたロークにしてもらいたかった。

なんだ、この陰影のない画面は。

むかつく。

ゲーリー・クーパーは、この時40歳を過ぎている。

1925年時点で25歳という設定のロークを演じるには、やっぱり、ちょっと老けすぎている。

第1部(15) キャメロン病に倒れる” への2件のフィードバック

追加

  1. キャメロン…。だめだったか…。
    ローク退校のとき、ロークの辿るかもしれない未来で浮かんだのがこんな未来です。
    世に対処できずにこんなことになる未来。ロークはどう動くのだろう?

    いいね

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