第1部(14) エルスワース・トゥーイー言論界に華々しく登場

エルスワース・M・トゥーイー著の『石の垂訓』は、1925年の初頭に出版された。 石の教え、つまり石の建築物が教えてくれること、というような意味である。副題は、「みんなのための建築学」というものであった。

トゥーイーの『石の垂訓』は非常に良く売れた。それは、建築の歴史が、泥で作られた時代から高層建築の時代までが、市井(しせい)の人々の言葉で、書かれた本だった。ただし、その言葉が科学的に見えるような言葉で、書かれた本だった。

著者のトゥーイーは前書きでこう書いている。本著は「それが本来属しているところ、つまり一般の人々に建築をもたらす」試みであると。さらに、自分としては、普通の平均的な人間が「野球を話すように建築について考え話す」のをこの目で見たいのだ、とも書いている。

トゥーイーは、読者を退屈させない書き方ができる。トゥーイーの書くものは、読者に本を読むときに必用なささやかな努力でさえ要求しない。

トゥーイーの『石の垂訓』は建築についての本なのに、「五大様式」と呼ばれる古代ギリシアやローマ期の円柱の様式とか門柱とか、入り口や窓の上の横木である「まぐさ」とか飛び梁とか鉄筋コンクリートとかの専門的事項を並べたてることはしなかった。

そのかわりに、古代エジプトの女中とか、古代ローマ期の靴職人とか、ルイ14世の愛人の日常生活とか、これらの人々が何を食べていたかとか、どうやって洗濯をしていたかとか、どこで買い物をしていたかとか、当時の建築物が当時の庶民の存在にどんな影響を与えていたかとか、そういう気楽な話が、トゥーイーの『石の垂訓』には満載されていた。

にもかからわず、「五大様式」とか鉄筋コンクリートについて知っておく必要のあるものを学んでいるのだという錯覚を、トゥーイーの『石の垂訓』は読者に与えた。

また、現代と同じように、過去のどの時代においても、名もない人々のありふれた決まりきった日常を超えるような問題などないし、偉業もないし、思想の高みなどというようなものもないという印象も、トゥーイーの『石の垂訓』は読者に与えた。

一般の人々の単調な日常に与える影響を超えるような目標も表現も科学にはないのだという印象も与えた。

だから、ぱっとしない毎日を営々と生きることだけでも、自分はあらゆる文明の最高の目標を表現し達成しているのだという感慨も、読者は得た。

このような本ならば、多くの読者を獲得する。このような本は読者に何の負荷も与えない。読者の生き方を問い詰めることもないし、読者の虚栄心をくすぐるだけである。

エルスワース・トゥーイーの科学的説明の細かさには非のうちどころがなかった。その博学ぶりは、驚くべきものだった。古代バビロンの調理道具やビザンティウムのドアマットについて は、誰も彼を論破できないだろう。

トゥーイーは、まるで自分の目で見てきたかのような鮮やかさと彩りで、記述する。トゥーイーは、建築の何世紀もの歴史を足取り重く歩くようなことはしない。

トゥーイーいわく、あらゆる芸術の中でも建築は真に最高である。なんとなれば全ての偉大なものがそうであるように、それが匿名だからである。

さらに、トゥーイーは、こう書いている。世界中に有名な建造物は多くあるが、良く知られた建築家というのはほとんどいない。それは、そうあるべきものであり、なんとなれば、建築においては重要な何かを創造した人物はいないからである。

ほかの分野でもそうなのだ。現代にいたるまで名を残している少数の人間は詐欺師であり、人々の名誉の所有権を奪ったのである。まさに他の詐欺師どもが、その富を奪ったごとく。

「我々が、古代の遺跡の壮麗さを驚きのまなざしで見るとき、さらにその偉業をひとりの人間に帰するとき、我々は精神的横領の罪を犯しているのである。我々は、知られざる讃えられざる、おびただしい数の職人たちについて忘却している。こうした名もなき職人たちこそが、それぞれの時代の闇の中を進み、慎(つつ)ましく苦労を重ねたのだ。すべての英雄的行為が慎ましいように。誰もが、それぞれが生きる時代に、ささやかな自分がやるべきことによって貢献してきたのである。偉大なる建造物とは、天才やそれに類した人物の私的な発明ではない。それは、人々の人民の精神の濃縮物にすぎない」

トゥーイーは、こうも書いた。

「建築の堕落は、私有財産が中世の共同的精神にとってかわったときに生じた。個人の所有者の自分勝手さというものが都市の計画的な効果というものを台なしにするのである、と。そういう人間は自分の悪趣味を満足させる以外の目的はなく建てる。個人の趣味を主張することは、ことごとく悪趣味であるのに」と。

トゥーイーは、はっきりこう表明する。

「自由意志というものなどはない。なぜならば、人間の創造的衝動とは、ほかの全てがそうであるように、その人間が生きた時代の経済的構造によって決定されるのであるから」と。

トゥーイーは、偉大な歴史的様式への称賛を表明する。しかし、それらの様式が気まぐれに混ざりあった場合は苦言を呈する。現代建築については、こう述べて、彼は退ける。

「今までのところ、現代建築は、孤立した個人の気まぐれ以外の何ものも表現してこなかった。あらゆる偉大で内発的な大衆運動との関わりを生んでこなかった。だから、それ自身としては、取るに足らないものである」と。

トゥーイーは、来るべきより良い社会を予言する。

すべての人間が兄弟であり、ギリシアの偉大なる伝統である「民主主義の母」に鑑(かんが)みて、建築物もみな調和して相似(そうじ)しているような時代を。

きちんとした活字で読まれる言葉は、真摯な感情をこめて書くと、かえって印象がぼやけてしまうということを、トゥーイーはよく承知している。だから、彼は、故意に、淡々と物事に距離を置いた調子で書く。

トゥーイーは、建築家たちに呼びかける。個人の名誉を利己的に追求することを捨てて、人民の空気の具現化へ自らを捧げよと。

「建築家は下僕であって、指導者ではない。自らの卑小な自我に重きを置くのではなくて、祖国の魂と時代のリズムを表現するべきである。建築家は、個人的な夢想という錯乱に従うべきではない。共通水準に従うべきである。そうすることは、彼らの作品を大衆の心により一層近づけることになるであろう。建築家諸君、ああ我が友よ、建築家のなすべきことは、その理由を論証することではない。建築家の義務とは、命令することではなくて、命令されることなのである」と。

『石の垂訓』に関する書評は絶賛ばかりであった。

「快挙である!」

「類いまれなる偉業!」

「芸術史において匹敵するものなし!」

「魅力ある人物と深淵なる思想家に出会う機会」

「知識人と称されることを望む誰もが読むべき書」

その「知識人と称されることを望む」人間は、かなり多いようであった。読者は、勉強せずに博学を、費用のかからぬ権威を、努力が要求されない判断を獲得できたのある。専門家ぶって、トゥーイーの439ページある本を憶えておけば、建築物を眺めてひとくさり述べることは、楽しいものであった。芸術的議論をして、同じパラグラフから同じ文章を拝借し交換するのは楽しいものであった。

有力者の邸宅の応接室などで、人は次のような言葉がかわされるのを耳にするようになる。「建築?ああ、そうですな。エルスワース・トゥーイーですな」などと。

言論界にデヴューしたばかりで、すでにエルスワース・トゥーイーは大御所であった。

自らの原則に従って、エルスワース・M・トゥーイーは、自著の中で建築家の名前はいっさいあげなかった。「歴史的研究において神話形成的、英雄崇拝的手法は、私にとっては、常に不快なものであった」からと。建築家の名前は、脚注にのみ言及されていた。

その多くは、ガイ・フランコンについてのものが多かった。フランコンは、「過剰装飾の傾向はあるが、古典様式の峻厳な伝統への忠実さについて推賞されるべきである」と評されていた。

ヘンリー・キャメロンについては、次のように記された脚註がひとつだけあった。「建築のいわゆるモダン派の父のひとりとして、かつては卓越していたが、以来、彼は忘却の中に忘れ去られている。それは実に適切なことである。人民の声は神の声である」と。

 第1部(14)おわり

(訳者コメント)

このトゥーイーの著作が出版後すぐに絶賛を受けたという設定に注意しよう。

読み進めて行くとわかるが、トゥーイーと彼の仲間たちは、メディアを牛耳って世論を誘導する。

彼らにとっての正義が実現された社会を作るために、プロパガンダに余念がない。

主流メディアの書評で非常に好意的に取り上げられる類の本は、実はプロパガンダの道具かもしれない。

ウイリアム・フォークナーというノーベル文学賞を受賞したアメリカ人小説家がいる。

英文科においては、この作家を研究することでさえ、名誉で優秀な英文学者の証とされるような大作家だ。

私自身は、読んでも何も面白くなかった。

アメリカの南部の没落した名家の人々の衰退ぶりを描いた物語などの、どこが面白いのか。

ダメな人間ばかりが登場する小説など読んでも生きて行く力にはならない。

だから、「こういう小説をいかにも偉大な文学作品として売り出すことには、政治的意図があり、人々を無気力非力な人民にとどめておく効果がある」と書いた論文を読んだときは、私は非常に嬉しかった。

我が意を得たり。

非常にメディアに賞賛される本は、政治的に無気力な本である。

毒にも薬にもならない弱虫の意気地なしの時間つぶしである。

ノーベル文学賞だの芥川賞だの受賞するような類の文学作品を読んでもファイトは出てこない。

文学作品もまたプロパガンダである。

エルスワース・トゥーイーは、ある政治的意図によって人工的に作られ売り出される言論人である。

個人の自由や個性の発揮を抑圧し集団主義的社会主義的社会を構築するための世論誘導のために売り出された知的テロリストだ。

耳障りのいい綺麗事を並べて 、大衆を騙す詐欺師である。

たとえば、急に彗星のごとく現れてTVで論陣を張るような人物には気をつけよう。

真実を言うような言論人が、いまどきのTVに出演できるはずがない。

写真は、映画「摩天楼」でのトゥーイーである。

原作のイメージは、もっともっといかにも誠実そうな清貧な感じの知識人だ。

誰もが信頼してしまうようなイメージの。

私は、トゥーイーといえば、昔の東京都知事の美濃部亮吉氏を思い出す。

「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉を思い出させる東京都知事だった。

一方、映画のトゥーイーは、最初から胡散臭い感じである。

ちょっとハンサム過ぎる感じもある。
陰謀をめぐらすタイプに見える。

驚いたことに、この小説を読んで、トゥーイーに憧れる人もいる。

世の中には、ほんとうに、いろいろな人間がいるものだ。

 

第1部(14) エルスワース・トゥーイー言論界に華々しく登場” への2件のフィードバック

追加

  1. この節で映画「アンナ・ハーレント」を思い出しました。
    ハーレントが耳障りな真実を書き、言葉尻を捉えられて攻撃されまくる。
    トゥーイーがまるまる逆の事をしていて…それが邪悪な事で驚きます。

    いいね

コメントを残す

WordPress.com でサイトを構築.

ページ先頭へ ↑