第1部(13) 窮するキャメロン設計事務所

キャメロンの机の上に手紙が拡げられていた。その手紙は次のことを彼に告げていた。「安全信託銀行」の役員会は、誠心誠意の検討を重ねた結果、アストリアに出す新支店の社屋についてのキャメロンの設計案は採用できないという結論を出したということを。設計料はグールド&ペティンギル社に渡ったということを。

キャメロンが提出した審査用の予備的な完成予想図作成料として約束通り、小切手が同封されていた。その額は、提出したスケッチ製作にかかった費用にも足りない。

その手紙は、まだ机の上に広げられたままである。キャメロンは、椅子の背にもたれ、その手紙を前にして座っていた。机には触れず、両手を膝の上に重ねていた。一方の掌の上にもう一方の手の甲を乗せて、指はしっかりと合わせられている。その手紙は単なる小さな紙きれにすぎない。

しかしキャメロンは、背を丸めてじっと座っている。なぜならば、その手紙が超自然的なものに思えたからだ。彼が身動きして自分の肌をさらしたら、彼を傷つけるような光線を放つラジウムのようなものに思えたからだ。

ここ何ヶ月ものあいだ、キャメロンは、その信託銀行の支店設計料を待っていた。

この2年間で、以前でもたまにしか彼のもとに来なかったチャンスというものが、次から次へと消えてしまっていた。ぼんやりとした期待と約束を帯びて出現しては、固い拒絶の形で消えていった。もう随分前に、製図係のひとりを解雇しなければならなくなっていた。

キャメロンの事務所の家主は、最初は滞っている家賃について、丁寧に質問していたのだが、それからそっけなく、ついには無礼にあからさまに詰問(きつもん)するようになっていた。

しかし、事務所の誰も、そんなこと気にもしなかったし、給料の支給がいつも遅れることも気にしていなかった。なぜならば、「安全信託銀行」の設計料が期待されていたからだった。

そこの副社長が、キャメロンに図面を提出するように依頼してきたのだ。その副社長は、こう言ったのだから。

「役員連中の中には、僕のようには物事を考えない者もいますが、でもやって下さい。僕に賭けてみて下さい。僕はあなたの設計が選ばれるよう力を尽くしますから」と。

だから、キャメロンは、そのチャンスに賭けた。彼とロークは、がむしゃらに設計した。期日にいろいろな図面をまにあわせるために。その前に届くように。グールド&ペティンギル社が図面を提出する前に届くように。ペティンギルは、「安全信託銀行」の頭取の妻の従兄弟(いとこ)だった。

キャメロンとロークと、ブラックコーヒーのポットは、何日ものあいだ、夜明けから凍えるような寒さの夜明けまで、事務所で寝泊まりしたのだった。キャメロンは、電気代の支払いについて、思わず知らず考えざるをえなかったが、あえてそのことを自分に忘れさせた。

朝食用のサンドイッチをロークに買わせに行かせたときの朝も早い時間には、製図室の明かりはまだともっていた。外の街路に白みがかった朝が訪れているのに気がついたロークが買い物からもどってきたとき、事務所の中はまだ夜だった。事務所の窓は、隣のビルの高い煉瓦の壁に面しているので昼間でも日は射さないから。

いよいよ完成という最後の日の深夜、キャメロンに自宅に帰り休むように言ったのはロークの方だった。そのときまでに、すでに疲労のためにキャメロンの手は痙攣(けいれん)を起こしていた。彼の膝は立ち上がるときに、支えとして製図用の椅子を必要とし続けていた。キャメロンは緩慢(かんまん)に用心深く、見ている者をうんざりあきれさせるような念のいれかたで、椅子にからだをもたれさせたりしていた。

だからロークは、タクシーに乗せるために下までキャメロンに付き添ったほどだった。そのとき、街路の電燈の下でキャメロンはロークの顔を見た。やつれきって、目だけが不自然なほどにギョロリと大きくなり、唇は乾いていた。

翌朝、キャメロンが事務所に出勤し製図室に入ったときに目にしたのは、床の上のコーヒー・ポットと、そのそばにできたコーヒーの黒い水たまりと、掌を上に向け、指を半ば閉じたロークの手だった。その手は黒い水たまりの中にあった。ロークの身体は、床の上で長々と伸びていた。彼は、頭をのけぞらせて眠りこんでしまっていたのだ。

それから、テーブルの上に、完成した何枚かの図面が置いてあるのに、キャメロンは気がついた・・・

キャメロンは、机の上に置かれた手紙を、まだ見つめいている。

キャメロンは、とうとうここまで俺は落ちたかと思う。設計案を出すまでの苦労の数々を考えることができない。アストリアに立つはずだった彼が設計したビルを考えることができない。自分にとってかわった他人が、どんなビルを設計したのか考えることもできない。

今のキャメロンには、電力会社に未払いのままの電気代のことしか考えられない。そんなことしか考えられない今の自分にキャメロンは気づく。そのことが彼を深く打ちのめす。

ここ2年間ほど、キャメロンは、何週間も事務所に姿をあらわさないことがあった。ロークは、キャメロンの家まで探しに行くということはしなかった。ロークには、何が起きているかはわかっていたけれども、キャメロンが無事に帰ることを願って、待つことしかできなかった。

しばらくすれば、キャメロンは、自分が苦しみあがいていることに対する羞恥心さえ失い、事務所に帰ってきた。千鳥足で、誰が誰やら判別もつかず、おおっぴらに飲んだくれ、自分が尊敬する地上で唯一の場所である自分の事務所の壁の前で酒をみせびらかすのだった。

給料の支払いが遅れるので、ロークは、自分が借りている部屋の家主に面と向かって、また次の週も部屋代を払うことができないと静かに述べることを学習していた。家主はロークが怖かったので、それ以上とやかく言うことはなかった。

ピーター・キーティングが、そのことをどういうわけか聞きつけて、やって来た。この男は、知りたいことなら何でもいつでも聞きつけてくるのが常だったから。

キーティングは、暖房のないロークの部屋に入り、コートを着たまま腰かける。それから財布を取り出し、10ドル札を5枚引っぱりだし、ロークに手渡す。

「必要だろ、ローク。君には金がいるってわかっているんだ、僕は。今は、いちいちいろいろ言うのはやめろよ。いつ返してくれてもいいんだから」

ロークは、びっくりしてキーティングの顔を見る。金を受け取りながら、こう言う。

「うん、必要なんだ。ありがとう、ピーター」

それからキーティングは言う。

「一体全体、君は何しているんだ?老いぼれキャメロンのところで時間つぶしてさ。何のために、こんなふうに暮らしたいんだ?やめろよ、ハワード!うちの事務所に来いよ。フランコンなら喜ぶよ。週に60ドルで君を雇うよ、うちの事務所ならば」

ロークは、ポケットからさっき渡された金を出して、キーティングに返す。

「おいおい、頼むよハワード。気を悪くしないでくれよ。そんなつもりはなかったんだから」

「気なんか悪くしてないよ」

「だけど、ハワード、金はとっておいてくれよ」

「おやすみ、ピーター」

キャメロンが、手に「安全信託銀行」からの通知を持って、製図室に入って来たとき、ロークは、キーティングとの一件があった晩のことを思い出していた。キャメロンは、「安全信託銀行」からの通知をロークに渡し、何も言わずに踵を返し自室にもどって行く。

ロークは、その手紙に目を通してから、キャメロンの後を追う。設計料を受けることができなかったときは、キャメロンは、その件については言及しないで、自室で自分に会いたがるのが常であるのをロークは知っていた。

ただそこでロークに会いさえすればいいのだ。他のことはしゃべらずに、ロークがそこにいるということを再確認できるということが、キャメロンの保障になるのだ。その保障にもたれかかればいいのだ。

キャメロンの机の上に、ニューヨークの『バナー』紙が置いてある。それは、全米にあるワイナンド系列新聞の中でも特に販売数を誇る新聞だ。それは、家庭の台所とか、理髪店とか、三流どころの人々が集まる応接室とか鉄道とかで目にするような類の新聞だ。つまりキャメロンの事務所以外のどこでもあるような新聞だ。

キャメロンは、ロークがその新聞を見ているのを見てニヤニヤする。

「ここに来る途中で、今朝買ったんだ。おかしいだろう?知らなかったけどな、その・・・今日この手紙が来るとは。しかし偶然にしてはうまくできている・・・この新聞とこの手紙。なぜ俺がこの新聞を買ったかわからないだろう?つまり、象徴という感覚だな。見ろよ、ハワード。これ面白いぞ」

ロークは、紙面にざっと目を通す。第一面には分厚いぬめぬめ光る唇を持つ未婚の母親の写真が載っている。彼女は愛人を射殺した。その写真は彼女の自伝と裁判の詳しい経緯を書いた連載記事の第1回を飾るために掲載されたのだ。

他のページには、ガスや電気などの公益事業会社への抗議運動が載っている。毎日の星占いもある。教会の説教からの抜粋もある。新妻向け料理コーナーもある。若い女の美脚の写真もある。夫をつなぎ止めておく方法というものもある。赤ちゃんコンテストの記事もある。皿を洗うことは交響楽を書くことより高貴なことであると高々と宣言する詩もある。ひとりの子どもを生んだ女性は自動的に聖人になると証明した記事もある。

「それが答えだ、ハワード。それこそが、俺と君に与えられた答えだ。この新聞だ。こういう新聞が存在し好まれているということ。こんなものと闘うことができるか?こんなものに、言って理解させられるような言葉があるか?あの銀行は、こんな手紙を俺たちに送ってくる必要などなかった。ワイナンドの『バナー』を1部送ってくるだけでよかったのに。そのほうが、もっと簡単でもっとわかりやすかったろうにな。数年もすれば、あの信じがたいほど下劣な男、ゲイル・ワイナンドがこの世界を支配するぞ。わかるか?それは実に美しい世界だろうさ。多分、あいつは正しいんだろうな」

キャメロンは、掌の上でその重みを計るかのように、その新聞をいっぱいに広げて持つ。

「連中が望むものを連中にくれてやればいいのさ、ハワード。そうしたことをしたということで、連中の足先をなめるみたいに媚びてやることで、君を奉らせておけばいいんよ、連中には。それか・・・それか・・・どうしたっていうんだ?何の意味があるっていうんだ?・・どうでもいいよ。意味あることなどないからな。俺にとっては、これ以上どうでもいいってことでさえ、どうでもいいな・・・」

それからキャメロンは、ロークを見て、つけ加える。

「君が独立できるまで、俺が持ちこたえられさえすれば、俺はそれだけで・・・」

「そのことは、おっしゃらないで下さい」

「俺は言いたいんだ・・・おかしなもんだな、ハワード。春が来れば、君がここに来てから3年になる。もっと長く感じないか?俺は、君に何かを教えたろうか?あえて言うが、俺は君に多くのことを教え、かつ何も教えなかった。誰も君には教えられない。核心のところはな、教えられない。その源泉のところは教えられない。君がしていることは、君自身のものだ。俺のものではない。俺は、君がもっとうまくできるように教えることはできる。手段は教えることができる。でも目的は教えられない。目的は君自身のものだ。初期ジャコバン式建築の貧血症みたいなケチなものや、後期キャメロン様式のものを建てるようなケチな弟子にはならんよ、君は。君がなるのは・・・俺が生きてそれを見ることができれば、それさえできればなあ!」

「ちゃんと生きて見ることができますよ。今だってわかっていらっしゃるでしょう」

キャメロンは、仕事場のむきだしの壁や、机の上の請求書の白い山や、窓ガラスをゆっくりと流れ落ちて行く汚れた雨を眺めながら、立っている。

それからキャメロンは静かに語る。

「俺には連中に言う答えがないよ、ハワード。そいつらに君が直面するというのに、これから闘うというのに、俺は君をひとりで置いて行かなければならない。君は、そいつらに答えるだろう。そいつら全部にだ。ワイナンド系列の新聞や、その類いの新聞の成功を可能にするようなものや、そういうことの背後にあること全部にな。それは、君に与えられた奇妙な使命だ。俺たちの答えがどうあるべきか、俺にはわからん。俺にわかっているのは、答えはあるし、君はその答えを持っているということだ。ハワード、君自身がその答えだ。俺には、それだけはわかる」

第1部(13)おわり

(訳者コメント)

全身全霊を込めて努力しても、それが報われないこともある。

キャメロンは、ロークが自分の設計事務所にいなければ、自分の零落や世間の無理解について、こうも苦しまない。

ロークという若い才能を伸ばすためには、自分の設計事務所を維持しなければならない。

それが叶えられないことにキャメロンは哀しんでいる。

ライオンのような強い雄々しいキャメロンが傷ついている。

守るべき大事な人間がいると、人間は強くなると同時に弱くなる。

ここで初めて出てくるのが、ゲイル・ワイナンドという名前だ。

キャメロンが憎む卑俗と下劣さを凝縮したような大衆新聞「バナー」の発行主だ。

このゲイル・ワイナンドの人生は、ロークの人生と大きく交錯してくる。

それは、まだまだ先のことだけれども。

今の私の年齢で読み直すと、キャメロンの建築一筋の生き方の狭さが気になる。

世の中なんて、世間なんて、通俗で低俗で卑俗なものだ。

俗っぽさを憎み軽蔑していては、身体がいくつあっても足りない。

キャメロンのように怖がるようなものではないのだ。

この地上では、どうしようもない低俗さもあれば、心が高揚するような素晴らしく美しいものだってある。

キャメロンの弟子のロークは、師匠よりも、そのことを知っているようだ。

ところで、ここで使っている写真は、映画版「水源」のキャメロンのシーンだ。

私のイメージとは大違いのキャメロンだけれども。

キャメロンの事務所の窓は、隣のビルの壁に遮られて、太陽の光はささない。

だけど、映画に出てくるキャメロンの事務所の窓からは、マンハッタンの高層ビルが見える。

原作に忠実に作ってもらいたいなあ、原作を愛する者としては。

日本では、1949年に「摩天楼」というタイトルで上演された。

ヒットはしなかったけれども、そこそこ注目を引いたことは、当時の日本の映画雑誌に肯定的な評価の評論なども載ったことでもわかる。

映画だと、1920年代や30年代の風俗や、建築作品のイメージが掴みやすい。

いちおうは、名監督の代表作のひとつだ。

でも、特に見なきゃいけないほどの作品じゃない。

ロークを演じているのは、ゲーリー・クーパーだけれども、彼はただのしょうもない2枚目なんで、映画もしょうもないものになってしまっている。

作者のアイン・ランドは、ゲーリー・クーパーのことを、ロークのイメージにぴったりだと言ったらしいが、私には理解できない趣味だ。

若い頃のバート・ランカスターをもっと知的に冷たくした感じだな、私のイメージでは。

 

みなさんは、どうお思いになりますか?

第1部(13) 窮するキャメロン設計事務所” への2件のフィードバック

追加

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

WordPress.com でサイトを構築.

ページ先頭へ ↑

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。