「そうですねえ」とキーティングはフランコンに言う。
「あの方を昼食にお誘いするために、うまくやるってのは、僕にはできそうもないですねえ。でも、あの方、あさって僕といっしょにモウソンの展覧会にいらっしゃるんですけどね。それが何か?」
キーティングは、寝椅子の端に頭を置いて休めながら、床の上に座りこんでいる。靴下もはいていないむきだしの足が長々と伸ばされている。ガイ・フランコンの黄色がかった薄緑色のパジャマのパンツが、キーティングの足先に漂うように脱ぎ捨てられている。 浴室の開け放されているドアを通して、フランコンが洗面台のところに立っているのが見える。フランコンは歯を磨いている。
「それは素晴らしいね。同じようにうまくいくさ。そう思わないか?」と、フランコンは、練り歯磨きの泡でいっぱいの口を、もぐもぐさせて答える。
「そうはいきませんよ」
「おいおい、ピート。こうなる前に、昨日ちゃんと君には説明しておいたじゃないか。ダンロップ夫人の御亭主は、奥方のために屋敷を建てるつもりなんだ」
「ああ、そうでしたね」と、キーティングは顔にかかるもつれた黒髪の巻き毛を払いながら、弱々しく答える。「ああ・・・やっと思い出しました・・・ああ、ガイ、頭がはっきりしてきました・・・」
キーティングは、昨晩フランコンに連れられて行ったパーティを、ぼんやり思い出す。穴のくり抜かれた氷の大きな固まりの中のキャビアや、黒い網のイヴニング・ドレスや、ダンロップ夫人の綺麗な顔などを思い出す。
しかし、どうやって、フランコンのアパートまで来ることになったのかまでは思い出せない。キーティングは肩をすくめる。去年は、フランコンとたくさんのパーティに出かけた。こんな具合に、フランコンの自宅に連れてこられたのもしばしばだった。
「そんな大きな額じゃないんだ」フランコンは、口の中に歯ブラシを入れたまま、話している。だから、彼の頬にはこぶができているみたいだし、歯ブラシの緑色の柄が口から突き出ている。
「小さなフライってとこで、ヒットにはならんよ。だけど、あのダンロップ夫人の義理の兄というのがクインビィなんだ。知っいるだろう、大不動産会社の。あの一家にささやかながら楔(くさび)を打ちこまないと。失敗できない。絶対に失敗できん。設計料がどこに入るかは、わかっているだろうね、ピート。あてにしていいだろうね、ピート?」
「もちろんです」と、キーティングは、うなだれたまま答える。
「いつでも、あてにしていただいていいですよ、ガイ・・・」
キーティングは、自分のむきだしのつまさきを見つめながら、ステンゲルのことを考え、じっと座っている。考えたくもなかったのだが、いつものように、自然に考えがステンゲルのところに飛んで行く。なぜならば、キーティングの次のステップは、ステンゲル追放だったから。
ステンゲルは、キーティングの友情作戦では落ちなかった。ここ2年間ものあいだ、キーティングの試みは、ステンゲルの眼鏡という氷を粉砕することができなかった。
ステンゲルがキーティングについて思うところは、製図室でも噂されていた。ステンゲル自身は、おおっぴらにキーティング批判を口にした。ステンゲルは知っていた。フランコンに提出した自分が描いた完成予想図が返却されるとき、その完成予想図に加筆があるとしたら、それはキーティングの手になるものと。
しかし、ステンゲルには泣きどころがある。彼は、いずれはフランコンから独立し、自分の設計事務所を設立するつもりだ。だから、ずっと共同経営者を物色してきた。若い建築家で才能はないけれども、莫大な遺産を継承しているような人物を。ステンゲルは、機会が来ることだけをひたすら待ってきた。今はまだフランコンの元を去ることができない。
キーティングは、他の何も考えていなかったぐらいにステンゲルを事務所から追い出す方策について考えてきている。今も、ここ、フランコンの寝室の床に座り込みながら、そのことを考えている。
2日後、キーティングは、フレデリック・モウソンという人物の絵画を展示しているギャラリーへ、ダンロップ夫人のお供で出かけた。そのときキーティングの取るべき行動の道筋が定まった。
鑑賞客もまばらな会場の中を、キーティングは、夫人を案内する。時おり、指を夫人の肘に親しく触れさせながら。また、自分の目が、絵画よりも夫人の若い顏にまともに注がれることが多いことを、夫人がちゃんと気づくように仕向けながら。
ダンプカーを呼び物にした風景画を夫人が素直に凝視し、期待されているような感嘆の表情を彼女が顔に浮かべようとしたときに、キーティングは言う。
「はい、素晴らしい作品です。この色彩をごらんください、奥様・・・このモウソンという画家は大変な苦労をしたそうです。画家として認められるためには、昔からよくある話です。心が痛みますね。芸術の世界はすべて同じですね。私の業界も含めて」
「あら、そうですの?」ダンロップ夫人は言う。
「富豪のスタイベッサント夫人に見い出される前は、モウソンは、屋根裏部屋に下宿して飢え死にしかけていたそうですよ。そうした境遇にある若い才能の持ち主を助けることができるなんて、名誉なことですねえ」
「それは素晴らしいに違いありませんわ」と夫人は同意する。
キーティングは憧れるように言う。
「もし、僕が金持ちならば、そういうことを趣味にしたいなあ。新しい芸術家のために展覧会を開いたり、新しいピアニストにコンサートを開く資金を提供したり、新しい建築家に家を建たせたり・・・」
「キーティングさん、御存知かしら?主人と私は、ロング・アイランドに小さな家を建てるつもりでおりますの」
「そうでらっしゃいますか?そんなこと、僕に話して下さるなんて、奥様は、ほんとうに親切な方でいらっしゃる。また、こういう言い方を許していただきたいのですが、奥様は大変お若くていらっしゃる。僕が奥様にうるさくお願いして、うちの事務所に関心を持っていただこうとするという危険が、奥様にはあおりになるということが、おわかりになりませんか?さもなければ、もうすっかり僕からは安全でいらっしゃるのでしょうか?すでに建築家はお選びでしょうか?」
「いいえ、私、まだあなたから安全ではありませんのよ、全然」と夫人は、愛らしく言った。
「それに、私は、そういう危険は気になりませんの、ほんとうに。ここ数日は、フランコン&ハイヤーがどうかと考えていますわ。とてもいい設計事務所だとお聞きしておりますわ」
「恐縮です、奥様」
「フランコンさんは、立派な建築家ですもの」
「ええ・・・まあ・・・」
「どうかなさいまして?」
「何でもありません。ほんとうに何でもありません」
「どうなさったの?」
「奥様、ほんとうに僕に言わせたいとお考えですか?」
「あら、それはそうですわ」
「あの、つまり、ガイ・フランコンというのは、名前だけなんです。うちの事務所を御指名下さっても、彼は奥様の御新居には何も関与しません。これは僕が明かすべきではない、いわゆる企業秘密のひとつなのです。奥様の何が、僕をこんなに正直にさせてしまうのか僕にはわかりません。うちの事務所が担当している最上の仕事のすべては、ステンゲルさんによって設計されたものです」
「どなたですって?」
「クロード・ステンゲルです。この名前を奥様はお聞きになったことがないでしょう。でも、いずれそうなります。彼を発見するだけの勇気を誰かが持っていれば。おわかりになるでしょうか、ステンゲルさんが仕事をしているのですよ、全部。彼はフランコンの影に隠れていますが本当の天才です。でも、フランコンは、ステンゲルさんの仕事に自分の署名をして、名誉はひとりじめなんです。全ての面で、そういう調子なんです」
「でも、なぜステンゲルさんはそんなひどい扱いを我慢なさっているのかしら?」
「彼に何ができます?誰も彼に最初の機会を与えてくれませんから。どれぐらい、そういう人々が多いか、奥様は御存知でしょうか。そういう人々は、慣れた道にしがみついているのです。勇気です、問題は。奥様、彼らには勇気が足りないのです。ステンゲルは立派な芸術家です。でもそれがわかる目のある人々がほとんどいないのです。彼はもう独立してやってゆけるだけの力はあります。ただ、彼に機会を与えてくれるスタイベッサント夫人のような傑出した人物が見つかりさえすればいいのですが」
「ほんとうですの?興味深いお話ですこと!もっとお話して下さる?」と夫人は言う。
彼は、その件について、大いにしゃべった。夫人は彼の手をとり握手して、こう言った。
「あなたは、ほんとうにお優しい方だわ。まれにみるほどお優しいのね。私がステンゲルさんとお会いできるように取りはからって下さるのね。でもそれでは、あなたのお勤め先はもちろんのこと、あなたご自身にも御迷惑ではないのかしら?大丈夫でしょうか?私、ステンゲルさんにお会いしたいなどと申し上げるつもりはありませんでしたのに。あなたは、私のお願いにもお怒りにならないのですもの、ほんとうにお優しい方なのね。自分のことだけ考える方ではないのね。あなたのお立場のような方で、ほかにどなたがおできになるかしら、同じことが」
キーティングは、ステンゲルに近寄り、ダンロップ夫人より申し出のあった昼食の件を伝えた。ステンゲルは、ひとことも言わずに、キーティングの話に耳をすませていた。それからステンゲルはびくっと頭を動かし、ぴしゃりと言い放った。
「そんなことして、君に何の得がある?」
キーティングが答える前に、突然、ステンゲルは首を後にのけぞらせる。「ああああ、なるほどね」とステンゲルは言う。それから、軽蔑の表情をあらわにしながら、唇が薄く見えるほど、笑う時のように口を大きく開きながら、キーティングに向かってからだを屈める。
「わかったよ。昼食に行く」
ステンゲルは、独立するためにフランコン&ハイヤー設計事務所を辞めた。ダンロップ邸の設計を請け負い、設計料を得た。フランコンは机の端を定規でビシビシ打ちたたき、キーティングに毒づいた。
「卑劣な男だ!底なしの卑劣さだ!さんざんいろいろしてやったのに、このざまだ」
「何を期待していらしたのですか?」
キーティングは、フランコンの前に置いてある低い肘かけ椅子に座って四肢を伸ばしながら言う。
「それが人生ですよ」と。
「しかし、げせんのは、あの馬鹿があの件をどうやって耳にしたかということだよ。人の仕事を鼻先からかすめとって行きやがるなんて!」
「僕はステンゲルを信用したことはないですけどね」とキーティングは肩をすくめる。
「人間っていうのは・・・」
キーティングの声にこもった苦々しさは真摯なものだった。彼は、ステンゲルから感謝の言葉をいっさい受けなかったから。
ステンゲルの彼に対する別れの言葉は、ただ次のようなものだった。
「君は僕が思っていたよりも下劣なやつだな。幸運を祈るよ。いずれ君は立派な建築家になるさ」
かくして、キーティングは、フランコン&ハイヤー設計事務所の設計主任の職位を獲得した。
いつも行く店よりは静かで値の張るレストランで、フランコンが昇進を祝ってくれた。ささやかなどんちゃん騒ぎの祝宴を開いてくれた。
「数年もすればだ」とフランコンはくり返し言い続ける。
「数年もすればだ、素晴らしいことが起きるよ、ピート・・・君はいい奴だな。僕は君が好きだ。僕は君のために一肌(ひとはだ)脱ぐよ・・・まだ僕は君にそうしてなかったよな?・・・君は出世するよ、ピート・・・あと2年か3年もすれば・・・」
キーティングは乾いた調子でフランコンに言う。
「ネクタイがよじれていますよ、ガイ。ブランディがヴェストにこぼれますよ・・・」と。
第1部(11)おわり
(訳者コメント)
ピーター・キーティングみたいなタイプの人間は、日本にもいるが、ただし日本的キーティングには、自覚とか戦略性がない。
キーティングは、自分が何を望み、そのために邪魔な人間をどうやって始末するかを考え、実行する。
ちゃんと意識して考える。
そこは、私は、さすがに酔生夢死の日本人とは違うな、と思う。
同じだタイプの狡猾な人間でも、日本人の場合は、自分の悪意や邪気や嫉妬に無自覚だ。
非常に残酷な心無いことをしておきながら、「そんなつもりはなかった」と言う。
悪人でさえ、ボケっとしている。自己把握ができていない。
話は変わって、キーティングのような、自分の属する集団における序列や立場を気にして、少しでも上位に行こうとする人間には2種類ある。
まず、自分が、その集団でしたいことが明確であるので、その集団の上位に立って集団を動かそうとする人間。
もうひとつが、ただただ、集団の上位に立ちたいだけで、上位になって何をするかは決めていないし、考えたことすらない人間。
キーティングは、後者だ。
読者が予測するように、キーティングは、ガイ・フランコンの事務所のトップに立つことになるが、なったとき、キーティングはすることがなくなってしまう。
こういう人間も多いよね。
キーティング、あまり頭の良い事をしてるようには見えません。大局で見たら、設計事務所から有能な人を追い出しているだけですし。将来、手詰まりになる予感がしてならないです。
と思っていたら、目的なしか~。破滅への序曲か~。
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大きく考えたら、何が一番利益なのか考えないひとはいまづねー
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大きく考えたら、何が一番利益なのか考えないひとはいますねー
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