第1部(10)キーティングはライバル1号を処分

フランコン&ハイヤー設計事務所での1年が経った。

キーティングには「ポートフォリオのない(資産のない貧乏な)皇太子」という称号がたてまつられ、噂されるようになっていた。まだ今は製図係りだけれど、あいつはフランコンの一番のお気に入りなんだぜ、と。

フランコンは、キーティングを昼食に同伴させる。いっかいの社員にとっては前代未聞の栄誉だ。顧客との面談のときも、フランコンは彼に同席するように言う。設計事務所にはそうした、お飾りみたいな若者がいることを、顧客は好むらしい。

ルシアス・N・ハイヤーには、「いつあの新顔を雇った?」と3年前からいる社員を指差して、フランコンに唐突に尋ねるという厄介な癖があった。しかし、ハイヤーは、キーティングに関してはちゃんと名前を憶えている。会えばどこでも、もちろんよく知っているし好感を持っているよと言いたげな微笑みを浮かべ、キーティングに挨拶する。だから、みな驚く。

陰鬱(いんうつ)な11月の午後、古い磁器を話題に、キーティングは、ハイヤーと長時間、話し込んだことがあった。磁器の骨董(こっとう)の収集は、ハイヤーの良く知られた趣味である。ハイヤーは、やたら熱心に磁器を集めていた。

キーティングは、その分野についてなかなかの見識を示した。実は前日の晩まで磁器の骨董なんて聞いたこともなかったけれども、その晩に公立図書館で調べておいたのだ。

ハイヤーは喜んだ。事務所の誰も彼の趣味になど関心を持たなかったし、彼自身がいることさえ、ほとんどの社員は気にもとめていなかったから。ハイヤーは、共同経営者のフランコンに言ったものだ。

「ガイ、君は新人選びに関して実に見る目があるねえ。長くここにいてもらいたいなあと思う若いのがひとりいるね。なんて名前だったっけ、そうキーティングだ」と。

「いや、ほんとにそうだね。いや、まったく」とフランコンは、微笑みながら答える。

キーティングといえば、製図室では、もっぱらティム・デイヴィスに集中していた。製図作成は、キーティングにとって、毎日の表面にある避けがたい細部でしかなかった。ティム・デイヴィスこそが実質であった。成功を目指す経歴の最初のステップの形だった。

デイヴィスは、キーティングに、自分の仕事のほとんどをやらせていた。最初は残業だけだったが、今では日々担当する仕事の、かなりの部分をキーティングに任せていた。始めのうちはこっそりとだったが、今は大っぴらである。

デイヴィスは、そのことを人に知られたくはなかったのだが、キーティングは周囲にそれを知らしめた。

僕なんかデイヴィスの鉛筆かT定規と似たり寄ったりの道具みたいなものですから、僕が手伝っているといっても、そんなことはデイヴィスの重要さを高めはしても減らしたりはしませんよ、だから僕がかわりにデイヴィスの仕事をやっていても、そんなこと隠す必要もありませんよ~~と言わんばかりの無邪気な確信に満ちた態度で、自分のデイヴィスに対する忠勤を周囲に見せつけた。

今では、製図係の主任は、ふたりの関係を当然として、デイヴィスに言うべき指示をキーティングに言いに来る。

キーティングは、いつも微笑みながらこう言った。「僕がやっておきます。そんな細かいことデイヴィスに言うと彼の仕事の邪魔になります。僕がやっておきますから」と。

かたやデイヴィスは、自分のするべき仕事を他人がするままに、のんびりとしていた。タバコばかりやたら吸い、だらしなく座り、両脚を交差させてスツールの横木の上に乗せ、目をとじながら、エレーヌのことを夢想していた。で、時々たまに言う。「ピート、できてる?」と。

デイヴィスは、その年の春にエレーヌと結婚していた。ひんぱんに遅刻していた。デイヴィスは、キーティングにささやいたものだった。「ピート、君さ、所長と仲いいんだからさ、たまにでいいから、僕のことうまく言っておいてよ。そうしたら、数回ぐらいは遅刻も多めに見てくれると思うからさ。あああ、今すぐ働かなければならないってのは、ほんといやだぜ!」と。

キーティングは、フランコンに言うのだった。

「所長、申し訳ありません。マーレーの地下2階の件なんですが、遅れていまして。ティム・デイヴィスが昨夜、奥さんと喧嘩したんです。新婚さんっていうのが、どういうものかおわかりでしょう、だから、あまりきつくあたりたくないじゃないですか」とか。

「所長、またティム・デイヴィスなんです。勘弁してやっていただけませんか。しかたがないんです。仕事に集中できなかったんですよ!!」とか。

とうとうティム・デイヴィスが解雇されたとき、製図室の誰も驚かなった。ティム・デイヴィス以外は誰も。

ティム・デイヴィスだけが理由がわからなかった。彼は、これから永遠に憎むであろう世界に対する敵意に苦々しく唇を噛んだ。ピーター・キーティング以外に、この地上で友などいないと感じた。

キーティングはデイヴィスを慰め、フランコンを罵った。人間存在というものにいかに正義が実現されていないか弁じたてた。安酒場で6ドル出して、知り合いのぱっとしない設計事務所の秘書におごり、ティム・デイヴィスに新しい職を斡旋(あっせん)してやった。

後になってから、デイヴィスのことを思うときはいつでも、キーティングは温かい愉悦(ゆえつ)を感じた。

自分は一人の人間の人生行路に影響を与えた。その人間を彼の歩いていた道から踏み外させてやった。別の道に押し込んでやった。そう、ひとりの人間を。ちょろいものじゃないか、人間を操作するなんてことは。

フランコンとハイヤーと製図室の主任の満場一致で、ティム・デイヴィスの製図台と職位と給与はピーター・キーティングに受け渡された。

しかし、この程度のことは、キーティングの満足のほんの一部にすぎない。

キーティングは、明るくしばしば言うのだった。「ティム・デイヴィス?ああ、彼の今の職は僕が紹介したんだけどさ」と。

彼は、この件について、母親に手紙を書いた。母親は、自分の友人に言うのだった。「ピーターちゃんったら、ほんと自分勝手なところがない子なの」と。

彼は、ときどき、キャサリン・ハルスィーと会っていた。あの晩に約束したように、その次の晩に彼女を訪ねることはしなかったけれども。

朝目覚めると、キーティングは自分が彼女に言ったことを思い出す。自分がそんなことを言ってしまったということで、キーティングは彼女を憎む。それでも、1週間後、彼はキャサリンのところに行く。キャサリンは彼を責めない。ふたりとも、叔父のトゥーイーのことは話題にしない。

彼は、その後は、ひと月おきかふた月おきにキャサリンと会った。会っているときは幸せだった。しかし、自分の仕事での昇進のこととかは、キャサリンに決して話さなかった。

彼は、ハワード・ロークに、そのことを話そうとした。その試みは失敗した。2回ロークに電話した。ロークの部屋のある5階までの階段を、なんだエレベーターもないのかと憤慨(ふんがい)しながら昇った。ロークに熱のこもった挨拶もした。キーティングは、安心を、保証を求めていたのだ。自分が、どんな安心、どんな保証を必要としているのわからないまま、またなぜそれをロークからのみ得られるのかわからないまま。

キーティングは、自分の仕事のことを話してから、ロークに、真摯な関心を持って、キャメロンの事務所でのことをたずねた。ロークは、キーティングの話に耳を傾けたし、聞かれたことには全て躊躇(ためら)いもせず答えた。

けれども、キーティングは、ロークの動きのない目の中の鉄のプレートを自分が叩いているだけのように感じた。自分とロークは同じことを話しているのではないと感じた。

ロークの住居から帰るとき、キーティングはロークのシャツの擦り切れたカフスや靴やパンツの膝にあてられた接ぎ布に気がつく。くすくす笑いながら、キーティングは帰る。

しかし、みじめな不安感をかかえたまま帰る。なぜこんな気持ちになるのか?もう二度とロークに会うものかと彼は誓う。それでも、また僕はロークに会いに行くだろう。そう思っている自分を、キーティングはいぶかしんだ。

第1部(10)おわり

(訳者コメント)

読者のなかには、キーティングのような、こんな他愛のない出世主義者がいるだろうか?と思う人もいるかもしれない。

いや、これが結構いる。

私は、育った家庭の成員がみな単純素朴な人間たちで、とうてい要領良く頭の回る人々ではなかったので、長じてビックリすることばかりだった。

世の中には、平気で嘘もつくし、保身のためなら何でもする人間がいるという事実を知って、私は驚いた。

たとえば、大学院生時代。私がいた大学院など吹けば飛ぶような水準のところだったし、そこの教授といっても、どうでもいいような立場の人々だ。何もできやしない非力な人々だ。

なのに、私の先輩も同輩も後輩も、彼らに気に入られようと勤めていた。そのためには嘘もついていた。

普通の礼儀だけではすまないらしいのだった。

私は、今でも、彼らや彼女たちを軽蔑している。会いたいとも思わない。

まあ、恩師の還暦祝いとか退職記念の食事会の幹事をしたので、連絡はとっていたが、本音は「しょうもない連中だ」であった。

2番目の就職先のキリスト教系女子大の短大部には、キーティングを不細工にしたような同僚がいた。

キーティングを厚化粧の女性にしたような同僚もいた。

ふたりとも国立大学出であったが、実に薄っぺらい人々であった。

あれ以来、「英語学」専攻という人間に、しっかり偏見ができた。

「文学専攻も馬鹿だけど、英語学とか言語学もクルクルパーだぜ……」

「勉強はできても頭が悪い人っているんだなあ」と感心した。

後日耳にしたところによると、不細工キーティングはセクハラで訴えられたそうである。

厚化粧キーティングは、万年准教授だそーである。

世の中って、けっこう公平なもんだ。

世間は馬鹿だから10年や15年は騙せるけれども、20年は騙せない。

後年になって、この小説を読んだ時に、アメリカにも、ああいう小賢しく小利口ではあるが実に軽薄で浅はかで虚栄心の強い馬鹿が棲息しているのだなあ……日本と同じだ、人間の類型は同じなんだなあと、あらためて思った。

私が、この小説をせめて大学生時代に読めていたら、大学院生時代や、女子大の短大部勤務時代の周囲の人間の軽薄さに対するウンザリした憂鬱な気分への対処がもっと上手くできたろうに。

当時から、心の中にハワード・ロークがいたら良かったのに。

 

 

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