第1部(8) キャサリンとキーティング

キャサリンに初めて会ったのは、1年前だ。ボストンでだった。彼女はそこで未亡人の母親と住んでいた。初めて会ったときは、キャサリンのことを不器量で退屈だとキーティングは思った。愛らしい微笑み以外は取り柄がないと思った。再び会う理由はなかった。

なのに、次の晩には彼はキャサリンに電話をかけていた。彼にとって、学生時代に知り合った数知れない娘たちの中で、キャサリンは、数度のキスをかわす以上の関係にはならなかった唯一の娘だ。彼は、会った娘ならどんな娘でもものにできたし、それを自分でもわかっていた。キャサリンだって、そうしようと思えばそうできることもわかっていた。実際、キーティングはそうしたかった。

キャサリンはキーティングを愛してくれたし、そのことを素朴に大っぴらに認めていた。恐れることもなく、内気に閉じこもることもなく、彼に何も求めず、彼に何も期待しなかった。

どういうわけか、キーティングは彼女のその気持ちにつけこみ、彼女を利用することはしたことがなかった。

あの頃、自分が連れ歩く娘たちについては、内心誇りに思っていたものだ。一番綺麗な娘たちで、一番人気もあって、一番オシャレな娘たちだった。学友たちの羨望(せんぼう)のまなざしを受け、キーティングは喜んでいたものだ。

一方、キャサリンは周囲を気にせずに、すぐにめそめそする。彼女にまた会うなどということは他の男ならとうていしない。だから、キーティングは彼女と交際することを恥じていた。しかし、彼女をフラタナティのダンスに連れて行ったときほど、楽しいひとときはなかった。

キーティングにも激しい恋の経験はいくつかあった。そんなときは、キャサリンのことなど何週間でも忘れていた。また彼女も強いて自分のことをキーティングに思い出させるような真似はしなかった。ところが、キーティングは、いつだってキャサリンのところに戻った。突然に、説明もなく。今夜彼がそうしようとしているように。

キャサリンの母親は優しい小柄な学校の教師だったが、去年の冬に亡くなった。キャサリンは、ニューヨーク在住の叔父の家に身を寄せることになり、ボストンを去った。

キーティングはキャサリンから来る手紙にすぐ返事を書いたこともあるが、だいたいの場合は、返信は何ヶ月か遅れた。彼女はキーティングが手紙を出せばすぐ返事をくれる。しかし彼からの返信がない長い間には、辛抱強く返事を待ち、決して自分からは手紙を寄越さなかった。

キーティングは。ニューヨークに来て以来1ヶ月ものあいだ、彼女の事は忘れていた。バスひとつ乗れば、電話ひとつかければ、会えるし話せる距離にいるというのに。

今、彼女の住む町に急いでいるときに、ちゃんと前もって彼女に行くことを知らせるべきだったのではないかと、キーティングは全く感じていない。在宅しているのかどうかでさえ、心配していない。いつだって、このように自分は彼女のところに行ったものだし、いつだって彼女はそこにいたものだった。今夜も、やはり彼女はそこにいた。

キャサリンは、古ぼけた、もったいぶった造りの褐色砂岩造りのアパートメントハウスの最上階にある部屋のドアを開けて、キーティングを迎えた。まるで、昨日にも会ったばかりであるかのように、彼女は「あら、ピーター」と言った。

キャサリンは、キーティングの前に立っている。彼女は華奢だ。丈が短めの黒いスカートが彼女の腰の細いバンドから、ふんわり広がっている。少年じみたシャツの襟が片側にひっぱられ、弛んでぶらさがっている。痩せた鎖骨が浮いているのが露に見える。シャツの袖は長すぎて、キャサリンの小さな細い手に覆いかぶさっている。栗色の髪は首の後ろで丁寧に束ねられているが、まるで断髪に見える。髪はまっすぐで、顔を囲む形のない光輪のように軽ろやかでおぼろに見える。灰色の瞳は大きく近眼である。彼女の口元がゆっくりと繊細に魅惑するように微笑む。唇がきらめいている。

「ひさしぶりだね、キャティ」とキーティングは挨拶する。

心が安らいでくるのを彼は感じる。何も恐れるものなどないのだと感じる。ニューヨークに来てから自分がどれだけ忙しかったか説明するつもりだったけれども、そんな釈明など今は無用だと思える。

「お帽子とったら」とキャサリンは言う。

「あの椅子には座らないでね。あまり安定がよくないの。居間の方が掛け心地のいい椅子があるわ。こちらにいらして」

居間は慎ましいとはいえ、どこか際立った特徴がある。実は驚くほど趣味がいいのにキーティングはすぐに気がつく。

まず本だ。天井まで高さのある安い本棚には、ぎっしり本が積まっている。本は注意深く積み重ねられ並べられているだけでなく、実際に読まれ使われているのがわかる。

小奇麗な古びた机の向こうに、レンブラントの銅版画がかけられている。その銅版画には紙魚(しみ)がついて、黄ばんでいる。多分、その銅版画は、どこかの古具屋かがらくた屋の店先で、ある目利きの眼識にかなって発見されたのだろう。その目利きは決してこの銅版画を手放すことはないのだろう。その版画に払った金は随分と彼にとっては大きなものだったろうに。

キャサリンの叔父の仕事は何なのだろうかとキーティングは思う。しかし、今はそれを訊ねない。

キーティングは部屋をぼんやりと眺めて立っている。自分の後ろにいるキャサリンを感じながら。いつもはめったに感じることのない確実な安定した感覚を楽しみながら。それから振り返って、自分の両腕の中にキャサリンを抱き、彼女にキスをする。彼女の唇が彼の唇に柔らかに、いかにも求めていたかのようにあわせられた。しかし、彼女は震えてもいないし興奮してもいない。あまりに嬉しかったので、それを当然のこととして受け入れる以外の方法では、彼の行為を受けとめることはできないという風情である。

「ああ!ほんとに君に会いたかったよ!」とキーティングは言う。キャサリンに最後に会って以来ずっと、彼女の事を思い出しもしない毎日を過ごしてきたことを、キーティングは自覚していたのだが。

「あなたは、あまり変わってないわ」とキャサリンは言う。

「少しやせたみたいだわ。そのほうが似合うわ。あなたは50歳になる頃には、とても素敵になっているわよ、ピーター」

「それって、お世辞にもなっていないよ。よく考えたらさあ」

「あらそう?今のあなたが素敵でないと私が思っているとでも?まさか、今のあなたも素敵よ」

「そんなふうに率直に言うものじゃないよ」

「どうして?自分が素敵だってあなたはわかっているでしょう。だけど、あなたが50歳ぐらいになったらどんなかしらと考えてきたのよ、私。こめかみあたりに白いものが混じって、灰色のスーツを着て。先週ね、窓からそういう人を見たの。ピーターは、ああいう感じになるかしらって思ったのよ。あなたは、必ずとても立派な建築家になるわ」

「ほんとにそう思う?」

「そう思うわ」キャサリンは、キーティングにお世辞など言わない。自分の言葉が追従(ついしょう)になりかねないなどということも、キャサリンはわかっていない。彼女は単に事実を述べているだけなのだ。あまりにも確かで強調する必要もないほどの、彼女にとっての事実を。

キーティングは、彼女からされても当然の質問を待っていた。しかし、突然、ふたりとも、昔のスタントン時代の話を始めていた。彼は大笑いする。自分の両膝の上に彼女を乗せる。彼女は痩せた両肩を彼の腕の輪にあずけもたれさせている。彼女の瞳は柔和で満ち足りている。キーティングは、自分たちが昔着ていた水着の話をし、キャサリンのストッキングが破れたときのことを話し、スタントンのお気に入りのアイスクリーム屋の話をする。ふたりとも、そこで幾晩もの夏の夜を過ごしたのだった。

何ヶ月も互いに会わなかったときに、人が話すのはこんなことではない。しかし、キャサリンにとっては、これは全く正常なことのように見える。自分たちが別れていたということさえ彼女はわかっていないように見える。

とうとう最初に切り出したのはキーティングの方だった。

「僕の電報、読んだ?」

「ええ。あのときはありがとう」

「僕が、この街でどうやっているか知りたいと思わなかった?」

「もちろん思ったわ。あなた、どうやって暮らしていたの?」

「君はあまり関心がないんだな」

「あら、そんな!あなたのことなら何でも知りたいわ、私」

「なぜ、僕に質問しないの?」

「言いたい時はあなたから言うでしょう」

「どうでもいいんじゃないの、君にとっては?」

「何が?」

「僕がどうしてきたかってこと」

「あら・・・そんなことないわ、ピーター。非常に関心があると言うことはないけれども」

「君って、正直だね!」

「だって、あなたが何をしているかということは、私には気にならないの。あなただけが気になるの」

「僕の何がだって?」

「単にここにいるあなた。あなたそのものが気になるの。ただそれだけなのよ」

「君って馬鹿だね、キャティ。君の手管(てくだ)は全くなってない」

「私の何が?」

「手管。そんなに恥ずかし気もなく男に言っちゃあいけない。ものすごくそいつのことが好きだってことをさ」

「あら、だってそうですもの」

「それでも、そう言ってはいけないの。男は君のこと構わなくなるぞ」

「だって、私、男の人に構ってもらいたいわけではないわ」

「君は僕には構ってもらいたいだろう?」

「だって、あなたは構ってくれるもの。そうでしょう?」

「そうさ」と、彼女のからだに回している自分の両腕に力を込めて、キーティングは言う。

「まったくもう。僕は君よりも大馬鹿だ」

「ねえ、ほら、ならばこれで全く問題ないじゃない?でしょう?」と彼女は、指を彼の髪の中に入れて言う。

「いつだって、全く問題ないんだよね。そこが一番不思議なところなんだけどね。だけど僕は僕に起きたことについて君に話したい」

「興味津々(しんしん)だわ、ピーター」

「君も知ってのとおり、僕はフランコン&ハイヤー設計事務所で働いている。それがどういうことか、君にはわからないだろうけどさ」

「あら、わかっているわ。『建築家人名事典』でちゃんと調べたのよ、私。フランコンとハイヤーについて、その事典はすごく褒めていたわ。叔父にも聞いてみたの。業界では最高だって、叔父も言っていたわ」

「確かにそうだよ。フランコンはさ、彼はニューヨークで一番の建築家さ。全米で一番かな。多分世界で一番かもしれない。17の高層建築と、8つの大聖堂と、6つの鉄道のターミナルを設計した。えっと他に何を建てたかなあ。もちろん、今の彼なんて老いぼれの馬鹿だけど。もったいぶった詐欺師なんだ。彼ときたら何でも自分に都合のいいように誤魔化すのがうまいだけで」

キーティングは口を開けたまま、キャサリンを見つめながら、話をやめる。彼は、こんなこと言うつもりはなかった。前は、こんなことを思うことさえ、自分に許さなかったのに。

キャサリンは、静かにキーティングを見ている。「え?それで?」と、彼女は訊ねる。

「ええと・・・それで・・・」キーティングは口ごもる。さっきと違う話は自分にはできないとわかっている。キャサリンに対しては、できないのだ。

「だからさ、それが、僕が本当にフランコンに感じていることなんだ。だから、僕は全く彼を尊敬していない。でも、僕は彼のところで働いていることは嬉しい。わかるかい?」

「ええ。あなたは野心家なのよ、ピーター」と、キャサリンは静かに答える。

「だからって僕のこと軽蔑しないでくれる?」

「まさか。それはあなたが望んだことですもの」

「確かに、それは僕が望んだことさ。だって、実際のところ、それは、さほど悪くないんだ。すごくいい事務所だし。ニューヨークでも最高のところ。僕はほんとうに仕事しているし、フランコンも僕のことはとても気にいってくれている。僕は今や事務所で頭角をあらわしつつある。いずれ僕がやりたい仕事は何でも僕が担当することになると思うよ。今夜だけは他人の仕事を請け負ったんだけどね。そいつときたら、自分がもうすぐお払い箱になるだろうってことがわかっていないんだ。なぜならば・・・キャティ!僕は何をしゃべっているんだろう」

「いいのよ。わかるわ」

「もし君がわかるのならば、僕のことを、僕がそう呼ばれてもしかたないような悪態で罵るだろうさ。で、僕をとめようとするだろうさ」

「いいえ、ピーター。私はあなたを変えたくはないわ。愛しているわ、ピーター」

「君って人は!」

「私にはわかるのよ」

「君にはそれがわかるって?君は、そんなことをそんなふうに言うのかい?まるで『あら、素敵な晩ね』って言うみたいにさ」

「あら、なぜ駄目なの?なぜ、そんなこと気にするの?愛しているわ」

「いや、もうそんなこと考えないでくれよ!そんなこともういいよ!キャティ、僕は他の誰も愛さないだろう」

「それもわかっているわ」

キーティングはキャサリンを強く抱きしめる。彼女の軽い小さな体が消えてしまうのではないかと心配になり、それが怖くて抱きしめる。

 なぜ、彼女がそばにいると、僕の心の中で秘められたままで言葉になっていないことを、僕は告白してしまうんだろうか。キーティングには、その理由がわからない。自分が、ここに来て彼女と分かちあおうとした勝利感が、萎(しぼ)んでしまった理由も彼にはわからない。

しかし、もうどうでもいい。キーティングは奇妙な解放感を味わっている。キャサリンのそばにいると、彼自身では定義できない圧迫感からいつも解放される。彼は今、ひとりの人間だ。彼は今、彼自身だ。今の彼にとって大事なのは、彼の手首に押しつけられている彼女の着ている目の荒い綿のブラウスの感触だけだ。

キーティングは、キャサリンにニューヨークでの彼女の暮らしぶりについて訊ねる。彼女は叔父について嬉しそうに話す。

「叔父は素晴らしい人なの。ほんとに素晴らしいの。暮らしが楽でないのに、私を引き取って下さったわ。そのことについては、ありがたいと思っているの。自分の書斎を私の部屋にして下さったから、今は、叔父はこの居間で仕事しなければならなくて。あなた叔父に会うべきよ、ピーター。今は、講演旅行で留守なの。叔父がニューヨークに戻ってきたら、叔父に会ってくださる?」

「もちろんさ、喜んで」

「あの、ほんとうはね、私は働きに出たいの。自活したいの。でも叔父が許してくれないの。叔父が言うのよ、『いい子だから、17歳では無理だよ。君だって、私が自分自身を恥じるようなことを私にさせたくないだろう?子どもが労働だなんて信じられないよ』って。それって、変な考えよね。そう思わない?叔父には、随分とたくさんの変わった考えがあるのよ。私には全然わからないけれど。でも、人は叔父のことを素晴らしく頭のいい人だって言うわ。叔父はね、まるで叔父に私自身と住む許可を私が出したみたいに思わせてくれるの。私が叔父に便宜をはかってあげたみたいに思わせてくれるの。そんなふうにしてくれるなんて、叔父はほんとに思いやりのある品格のある人だと思うわ」

「君は一日中何をしているの?」

「特に今はこれといって何も。本を読んでいるわ。建築のね。叔父は、建築に関してものすごい量の本を持っているの。叔父が家にいるときは、私が叔父の講演の原稿をタイプするのよ。叔父が、私にそうしてもらいたがっているとは思えないのよ。いつも頼んでいたタイピストがいたもの。でも私がそうしたいので、させて下さるの。お給金も下さるのよ。そんなの、いただきたくないのに、叔父は私に受け取らせるの」

「君の叔父さん、何をして稼いでるの?」

「ええと、いろいろなことよ。知らないのよ、私は。憶えていられないの。そのうちのひとつは芸術の歴史を教えることだから、大学の教授みたいなものかしら」

「ところでさ、大学はいつ行くの、君は」

「ああ・・・そうねえ、大学へ行くっていうことは、叔父は認めてくれないと思うわ。大学に行くことについては、どう私が考えてきたかということや、働きながら大学に行くつもりだということとか、叔父には話したことあるの。でも、そういうのは私に向いていないと叔父は思っているみたいなの。叔父は、あまりいろいろは言わないのだけれども、ただこう言うの。『神様は象を骨折り仕事のためにお作りになったし、蚊はぶんぶん飛び回るためにお作りになった。原則としては、自然の法則がどうであるのか実験してみることなどは薦めないが、しかし、君がほんとうにそうしたいのならば・・・』って。そうは言っても叔父はほんとうに反対しているわけではないの。すべて私次第なのよ。ただ・・・」

「自分がしたいことを、叔父さんのせいで諦めるなよ」

「あら、叔父は私が大学に行くのを諦めさせたいわけではないのよ。ただ、私も考えてたの。高校のときでも、私の成績って特にいいってわけでもなかったし。数学なんて特にひどかったし。だから、そうねえ・・・だけど、急ぐことないわ。決めるにはまだ時間がたっぷりあるもの」

「キャティ、僕はそういうの嫌いだな。君はいつも大学に行くつもりだったじゃない。 もし、その君の叔父さんとやらが・・・」

「そんな風に言わないで。あなたは叔父のこと知らないから。叔父は最高に素晴らしい人よ。これまで叔父みたいな人に会ったことがないわ。とっても親切で、とっても人の気持ちや考えがわかる人なの。すごく面白くて、いつも冗談ばかり言って、またその冗談がうまいの。深刻な困ったことだと思えるようなことも、叔父がいれば、何でもないのよ。だけど、叔父はとても真面目な人なの。わかってもらえるかしら、叔父は数時間かけてでも私にいろいろ話してくれるし、疲れを知らない人なの。私の馬鹿さかげんにもうんざりしないでくれるし。ストライキのあれこれとか、スラム街の状態とか、低賃金で長時間働かされる工場での貧しい人々のこととか、いつも他の人々のことを話して、自分のことは決して話さないの。叔父のお友だちが言ってらしたわ。叔父はその気になれば大変なお金持ちにもなれる人だって。叔父はすごく頭がいいから。でも叔父にはその気がないの。お金には関心がないの」

「そんなの人間じゃないよ」

「叔父に会えばわかるわ。叔父もあなたに会いたがっているのよ。私、あなたのこと話してあるから。叔父はあなたのこと、『T定規持ったロメオ』って呼ぶの」

「へえ、そうなんだ」

「あなたは叔父のこと知らないから。叔父は、いい意味でそう言っているのよ。それが叔父のものの言い方なの。あなたと叔父はいろいろ共通点があるわ。多分、叔父はあなたの助けになると思う。建築についても叔父は、よく知っているのよ。あなたは、エルスワース叔父さんのこと好きになるわ」

「誰だって?」とキーティングは言う。

「叔父よ」

「ねえ、君の叔父さんの名前って?」と少し声をかすれさせて、キーティングは、訊ねる。

「エルスワース・トゥーイーよ。なんで?」

彼の両腕はだらりと落ちる。彼はキャサリンをじっと見つめる。

「どうしたのよ、ピーター?」

彼は息をのんだ。キャサリンは、彼の咽(のど)がごくりとなって動くのを見た。それから、彼は声を硬くして言う。

「ねえ、キャティ、僕は君の叔父さんに会いたくない」

「え?どうして?」

「会いたくないんだ。君を通しては・・・キャティ、君は僕っていう人間を知らないから。僕は人を利用するから。僕は君は利用したくない。君を利用することを僕にさせないで。君だけは利用したくない」

「どうやって、あなたが私を利用するというの?どうしたの?なぜなの?」

「単にこういうことさ。僕はエルスワース・トゥーイーに会うためにどんな苦労でもしてみせるよ。自分の力で会ってみせる。それだけのこと」彼は荒っぽく言って笑う

「建築についても叔父はよく知っているのよ、だって?よく言うよ!君の叔父さんは建築界ではもっとも重要な人物なんだぜ。まだ今はそうでないかもしれないけれど、数年後にはそうなる。建築評論界のナポレオンになる途上にあるんだぜ、君のエルスワース叔父さんは。もともとが、僕らの業界について書く評論家なんてあまりいないからな。だから君の叔父さんは頭がいい。株を買い占めるようなもんだもんな。君に見せてやりたいな。君の叔父さんが活字にする一字一句をなめるように読んで一喜一憂する、うちの事務所の連中の大騒ぎを。多分、君は思っているんだろう?君の叔父さんが僕に便宜(べんぎ)を計ってくれって。そう、多分そうしてくれるだろう。そうなるよ、きっと。いずれ僕は君の叔父さんと会うことになる。僕にその用意ができたらね。だけど、君を通してでは、いやなんだ。わかるかい?君を使って会うのはいやだ」

「だけど、ピーター、なぜいやなの?」

「僕はそんな風にはしたくないんだ!汚いんだよ、それは。僕は、みんな嫌いなんだ。自分の仕事なんか嫌いなんだ。建築だって嫌いだ。自分がしていることも、これからやろうとしていることも大嫌いなんだ。君だけはそんなことから離れていてもらいたいんだ。僕には君しかいないからさ、ほんとうに。キャティ、だから離れていてくれよ!」

「何から離れてればいいの?」

「わからないよ!」

キャサリンは身を起こし、キーティングの両腕の中で立った。キャサリンがキーティングの腕の中にいるときは、彼の顔は彼女の唇に押しつけられていたので見えなかった。でも今は、キャサリンはキーティングの顔を見下ろしながら、彼の髪をかきわけ撫でている。

「いいのよ、ピーター。私はわかっていると思う。あなたがそうしたいと思うまで、叔父に会うことはないわ。会いたいと思ったら、そう言って。そうしなければならないときは、あなたは私を利用していいの。そんなこと構わないのよ。そうしても何も変わらないわ」

キーティングが顔を上げると、キャサリンは優しく笑っている。

「あなた働き過ぎなのよ、ピーター。だから張りつめていた糸が弛んじゃちゃっただけよ。お茶なんかどう?」

「ああ、すっかり忘れていた。まだ晩飯食べてなかったんだ。時間がなくてさ」

「あら、もってのほかだわ!まあ、なんてひどいのかしら!少ししたら台所に来て。何か作れるかどうか見てくるわね!」

キーティングは、2時間後にキャサリンの家を後にした。身も軽く清々しく、幸福感も感じながら、彼は歩く。心に抱いていた恐怖はみな忘れていた。トゥーイーのこともフランコンのことも忘れていた。明日、またキャサリンのところに行くと約束したことだけを彼は考えている。それまで待つのがひどく辛く感じられる。

キャサリンは、キーティングが去った後も、彼が触れたドアの取っ手に自分の手を置き、玄関に立ちながら思う。ピーターは明日来るわ。それか3ヶ月たってからかしらね。

(第1部(8) 超訳 おわり)

(訳者コメント)

このキャサリンは、ほんとうに気立てが良い女性だ。

相手の立場になって考えることができるし、忍耐強いし、自分勝手に他人に求めない。

良い子ぶりっ子しているわけではなく、ほんとうに良い子なのだ。
ところが、この小説の中では、キャサリンは酷い目にあう。

良い子というのは、「どうでも良い子」扱いをされるものである。

「心優しい女性は、家族や恋人のことを心配するあまりに、家族からも恋人からも利用されて、その利用されている自分を直視できずに、どんどん自己欺瞞を重ね、ついには自分が何を求め望んでいたかわからなくなる内面空虚な人間となる」というのが、この小説の女性観である。

こーいう女性像は、もう古く見えるかもしれないけれど、私が観察するかぎり、こーいう女性はけっこう未だに多い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第1部(8) キャサリンとキーティング” への2件のフィードバック

追加

  1. キーティングが割と本気でキャサリンを大事にしているだけに胸が痛い。
    あと、トゥーイーが姪を「自分の信念」に基づいて大事にしているのも胸が痛い。
    何よりキャサリンが受動過ぎて怖い。
    合わせ技で、キャサリンに不幸が起こりそうな気がして怖いです。

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