第1部(6) ヘンリー・キャメロンとローク

ガイ・フランコンが設計したフリンク・ナショナル銀行の建物はマンハッタンの南部にそびえ立っている。太陽が空を移動するにつれて、そのビルの長い影も移動する。巨大な時計の針のように薄汚れた住宅群を横切っていく。太陽が沈むと、太陽のかわりに、フリンク・ナショナル銀行ビルの屋上にあるハドリアヌス帝の霊廟(れいびょう)のミニチュアのレプリカの中の松明(たいまつ)が輝き始める。風に吹かれている形のガラス製の松明だ。

この松明はジェネラル・エレクトリック社の電球だ。それは、四方何マイルも離れた場所に立つビルのガラスの窓や、この松明の明かりを映すのに十分なくらい高いビルの上階部分に、赤々と輝くしみをつける。

フリンク・ナショナル銀行の建物は、ローマ時代の芸術の全歴史を見せつけている。全ての古代ローマ様式がこの建物にはいっぱいつまっている。長いあいだ、このビルはニューヨーク最高の建築物と考えられてきた。ただそれだけの理由で、この建物は最高ということになっている。


この銀行ビルには実に多くの円柱がある。ペディメントがある。フリーズと呼ばれる帯状装飾の小壁がある。巫女が神託を述べた青銅の祭壇である三脚台がある。剣闘士の浮き彫りがあり、壷がある。ヴォリュートと呼ばれロイスオニアやコリント様式の柱頭に見られる渦巻き模様がある。

あまりに沢山、そういうものがあるので、それらは白い大理石でできているというより、クリームのチューブからしぼりだされたかのように安っぽく見える。しかしそれは本物の白い大理石である。

最初は真っ白だった大理石も、今や縦の筋目がつき、大きなしみがつき、くさった皮膚のような趣になっている。茶色でもなく緑色でもなく、その両方の色の最悪の色合いを帯びてしまっている。緩慢(かんまん)なる腐食の色と言うべきか。煙や、排気ガスや酸が、本来は清潔な空気の田舎にふさわしい繊細な質の石を侵食してきた。

とは言っても、やはりフリンク・ナショナル銀行ビルは、偉大なる成功だった。それが実に偉大なる成功だったので、それはガイ・フランコンが設計した最後の建築になった。そのビルがもたらした威光のために、もうこれ以降、フランコンは実際の設計仕事を部下に任せてしまった。

フリンク・ナショナル銀行ビルから3ブロック東に行ったところに、ディナ・ビルがある。そのビルは、フリンク・ナショナル銀行ビルより数階ばかり低いし、どんなものにせよ威光などとは縁がない。そのビルの線は硬く簡素である。その線は、外観の骨組みの完璧さを露にしていると同時に、内部の鋼鉄の枠組みの調和を露にし、強調している。

ディナ・ビルには、装飾というものがいっさいない。その鋭い角度、その平面の造型、氷の流れが屋根から鋪道まで流れ落ちているかのような長い縞のような窓。それら以外は、いっさい何も見せつけていない。ニューヨークの人々は、ほとんど誰もこのディナ・ビルに目をとめない。


(ディナ・ビルのモデルとなったビル。ルイス・サリヴァン設計)

時おり、このあたりにはめったに来ない観光客が、たまたま月光の中で、思いがけなくこのビルに出くわす。観光客は立ち止まって不思議に思う。どんな夢からこのようなビルを考案できたのかと。

しかし、こんな観光客はまれだった。ディナ・ビルの入居者は、このビルを地上のどの建物とも交換したくないと言う。入居者たちは、採光、換気、玄関ホールや各部屋の設計に貫徹している美しい論理を評価していた。しかし、ディナ・ビルの入居者は、数が多くない。成功者として有名な人間は、「倉庫みたいに」見えるようなビルの中に、自分のオフィスを構えることは望まない。

ディナ・ビルは、ヘンリー・キャメロンが設計した。

1880年代、ニューヨークの建築家たちは、自分の職業において第2位の立場を得るために互いに闘っていた。誰も第1位になろうとは思っていなかった。最高位はヘンリー・キャメロンにおさえられていたから。

あの当時、ヘンリー・キャメロンを捕まえるのは難しいことだった。2年先まで、顧客がキャンセル待ちリストに名を連ねていた。キャメロンは、自分の建築設計事務所の名で発表する建築物は、すべて自分で設計した。彼は自分が建てたいものだけ選んで設計した。彼が建てる時、顧客はいっさい口をさしはさまなかった。彼は、すべての人々にひとつのことだけを要求した。服従である。自分は誰にも服従しなかったのだが。

彼は名声の日々を欲しいままにした。誰も推測できないゴールに向かって飛ぶロケットのごとく。人々は彼を狂っていると評した。しかし、彼が人々に提供したものを人々は受け入れた。それが理解できようと理解できなかろうと、人々は受け入れた。なぜならば、それは「ヘンリー・キャメロンによって建てられた」ものなのだから

最初は、彼の建築物は、単に少し風変わりなだけであった。誰をも震撼させるほどの奇抜さはなかった。

たまに、キャメロンは、とんでもない実験作を発表した。しかし人々はそれを期待していたし、ヘンリー・キャメロンと議論することなどしなかった。新しい建築物を手がけるたびに、何かが彼の中で大きくなり、苦闘し、形を取り、危険にふくれあがり、ついには爆発した。

その爆発は高層建築の誕生とともに起きた。

建築物が非常に重々しい何層もの石造の上に立つのではなく、重さも限界もなく、空に向かって疾走する鋼鉄の矢のように立ち始めた。ヘンリー・キャメロンは、この新しい奇跡を理解した。

ヘンリー・キャメロンは、高層建築に形を与えた最初の建築家のひとりとなった。彼は、高層建築というものは高く見えなければならないという真理を受け入れた最初のかつ数少ない建築家のひとりでもあった。

20階建の建物をどうやって古式ゆかしい邸宅のように見せられるのかと文句を言う建築家もいた。高層建築の高さを少しでも低く見せるために、水平に見える仕掛けを使えるだけ使い、高層建築に不可欠な鋼鉄を恥じ、なんとか小さく、安全で、古典様式に見せようとする建築家もいた。

しかし、ヘンリー・キャメロンは、まっすぐな垂直な線で、鋼鉄や高さを誇示するような高層建築を設計した。相変わらず他の建築家たちが、フリーズだのペディメントなどを設計しているときに、ヘンリー・キャメロンは、高層建築はギリシア様式を真似してはいけないと決意した。建築物は、ほかの建築物の模倣であってはいけないと、決意した。

ヘンリー・キャメロンは、そのとき39歳だった。小柄ではあるがたくましく、外見には一向かまわず、髪には櫛(くし)も通っていなかった。寝食忘れて犬のように働いた。めったに酒を飲むこともなかった。自分の顧客をとうてい活字にはできないような言葉で罵(ののし)った。人から受ける憎悪など笑い飛ばした。かえって故意にそれを弄び、封建時代の領主や波止場人足のようにふるまった。

ヘンリー・キャメロンは、彼が入って行く部屋ならどこでも、そこにいる人々を苦しめるような情熱的な緊張の中で生きていた。他人どころか、彼本人さえも、耐えることができないような激しい火の中で生きていた。それは、1892年のことだった。

そう、あのシカゴのコロンビア万国博覧会が開催されたのは、翌年の1983年だった。

2000年前のローマが、ミシガン湖の岸に建てられた。ローマ帝国滅亡の後フランスやスペインやアテネなどで発展したあらゆる建築様式の断片によって改善されたローマが、再現されたのである。

それは、数々の円柱や凱旋門(がいせんもん)や青々とした水をたたえる貯水池や、水晶のような噴水やポップコーンでできあがった「夢の都市」だった。

博覧会場の建造物を担当した建築家たちは、もっとも古い様式のみならず、ありとあらゆる様式から、一度にいかになるべく多くの様式を盗めるかを競いあった。新しい国アメリカ合衆国の国民の目前で、古い欧州の国々で犯されたあらゆる建築の罪が開陳(かいちん)されたわけである。それら似非(えせ)ローマ帝国の建築物の色は白かった。疫病のように白かった。

博覧会に人々はやってきた。見た。そして仰天した。で、自分が住むアメリカの街に帰って行った。自分がみたものの種子をたずさえて。

その種子は発芽して雑草となった。 あちこちに、古代ギリシア建築のドーリス式のポルチコと呼ばれる様式の柱廊のある板葺きの郵便局ができた。鉄製のペディメントのついたレンガ作りの邸宅ができた。どんどん上に重ねられた十二のパルテノン神殿でできたロフトなどというものもできた。雑草は伸び放題になり、他の植物の息を詰まらせてしまった。

ヘンリー・キャメロンはコロンビア万国博覧会のために設計することは断っていた。罵詈雑言で博覧会の建築物を罵った。それは、とうてい活字にできるような言葉ではなかった。キャメロンの罵詈雑言はくり返された。

イオニアの古都、エフェソスの女神ダイアナの寺院のような形で鉄道の駅を設計してくれと依頼した有名な銀行家めがけてインク壷を投げつけた。銀行家は二度とキャメロンに依頼しなかった。二度と彼に依頼しなかった顧客は他にも数多くいた。

長い苦闘の年月を経て、やっと目的に手が届いたときに、求めてきた真実に形を与えることができるようになったちょうどそのときに、最後の障壁が彼の前に降ろされた。

ついには、その障壁は彼を閉じ込めてしまった。若い国家アメリカは彼が来る道を見つめ、最初はいぶかしんだが、彼の作品の新しい偉大さを受け入れるところまで来ていた。

なのに、アメリカは、2000年も過去の古典様式の乱交へと逆戻りしてしまった。そんな状態になった建築界に、ヘンリー・キャメロンの居場所はなくなってしまった。彼の才能の使い道も絶たれてしまった。

これでは、建築物を設計することなど必要ないではないか。写真撮影すれば事足りるではないか。

だから、古典建築に関しての資料を最も所有する者が、最高の建築家となった。模倣が模倣を生んだ。それを是認するために教養というものが捏造(ねつぞう)された。巻物(まきもの)を解(ほど)いてみたら朽ち果てた廃虚のなかに20世紀があったという具合だ。それが偉大なる万国博覧会であった。どの家庭のアルバムにも、あらゆるヨーロッパ風の絵葉書があった。

ヘンリー・キャメロンには、この状況に抗(あらが)い、できることなど残されていなかった。彼が持っていたのは信仰だけだった。自分自身から生み出されたものだから、それには意味があると信じることができるという理由だけで抱く信仰である。彼には引き合いに出せるような歴史上の先人建築家など誰もいなかった。どこかの本から拝借してきて言うようなこともなかった。

単に、キャメロンはこう述べるだけだった。建築物の形はその機能にしたがわねばならないと。建築物の構造は、建築物の美しさの鍵であると。新しい建築術は新しい形を求めると。自分は自分が望むように設計し建てたいと。その理由のためにだけ建てたいと。

しかし、世間が紀元前1世紀頃の建築家ウイトルウイウスや、ルネサンス時代16世紀のミケランジェロや、17世紀から18世紀にかけて活躍した英国の建築家クリストファー・レン卿のことをもてはやして議論しているときに、ヘンリー・キャメロンの言葉に耳を貸す者は誰もいなかった。

世間とは情熱を憎むものだ。あらゆる偉大な情熱を。ヘンリー・キャメロンは間違いをおかした。彼は自分の仕事を愛した。それこそが、彼が闘った理由だ。だからこそ、彼は敗北したのである。

人々は、キャメロンは自分が負けたことをわかっていないと噂した。もし、わかっていたら、彼は人々にあんな態度は取らないだろうから。つまり、顧客がめったに来なくなれば来なくなるほど、顧客に対するキャメロンの態度は、ますます堪え難いものになっていったのだ。彼の名前の威光が小さくなればなるほど、その名を発音する彼の声の響きは、ますます傲慢なものになっていったのだ。

キャメロンには、かつて有能なマネージャーがついていた。温厚で、でしゃばることはないが、鉄のように芯の強い小男だった。彼の最盛期には、彼のかんしゃくの嵐に静かに立ち向かい、彼に顧客をもたらした。彼が顧客を侮辱しても、その男は顧客に彼の意を受け入れさせたし、顧客が考え直してもどってくるようにしたのだ。しかし、その小男も死んでしまった。

キャメロンは、人との接し方をついぞ知らずにすませてきてしまった。彼には、世間の人々などどうでもよかったから。自分の人生がどうでもよかったように。建築以外の何ものもどうでもよかったように。

彼は、説明をするということを全く学ばなかった。命令するだけなのだった。彼は、決して人から好かれなかった。彼は恐れられていた。しかし、今やもう、誰も彼のことを恐れなくなった。

今のキャメロンは、生きることを、かろうじて許されている状態だ。今のキャメロンは、かつては再建することを夢見ていたニューヨークの街並を憎悪するために生きている。空っぽのオフィスで、じっとして、だらだらと時間をつぶしている。めったに来ない客を待ちながら、机についているだけのために生きている。

彼は、新聞記事の中の「故ヘンリー・キャメロン」への言及を読むために生きている。すでに死んだと思われているのだ。彼は、夜も昼も、黙りこくって絶えまなく痛飲するために生きている。彼をそのような状態に追い詰めた人々が、彼の名前が依頼すべき建築家の候補として取り沙汰されるときに、「キャメロンだって?そりゃ駄目だ。ありゃ大酒飲みで、だから仕事がないんだ」と噂するのを聞くために、彼は生きている。

有名なビルの3階分全部を占めていた事務所から、もっと下の階にある通常の事務所の半分の広さしかない部屋へ移り、それからついには発電機近くのダクトに面した3部屋しかない事務所へと移るために、彼は生きている。窓に顔をくっつければ、煉瓦の壁の向こうにディナ・ビルの最上階の部分が見えるという理由だけで、彼は今の事務所の部屋を選んだ。

ディナ・ビルが見える。ハワード・ロークは、ヘンリー・キャメロンの設計事務所を訪れるために6つの階段を登りながら、窓の向こうのディナ・ビルを眺める。階段と階段のあいだの踊り場で立ちどまっては、ディナ・ビルを見つめる。エレベーターが故障していたので、階段を使うしかなかった。

階段は、かなり前には汚いやすりのような緑色で塗られていたのだが、今では、そのペンキも僅かしか残っていない。靴の裏底に踏みつけられ、けずられ、粉々のつぎはぎ状となって残っているにすぎない。

ロークは、機敏に階段を上がって行く。まるで約束でもしているかのように。腕の下に、自分の描いた図面をかかえて、目はディナ・ビルにやりながら。

1度だけ、階段を降りて来る男にぶつかったが、こういうことは、ここ2日間に、しばしば起きたことだった。なにしろ、ロークは頭を上に向けて、ニューヨークの建物以外何も見ずに街を歩き回っていたのだから。

暗い隠れ家のようなキャメロンの事務所に入ると、電話とタイプライターが置かれた机があった。髪に白いもののまじった骸骨のようにやせた男が机についていている。半袖のシャツを着ている。ゴムの緩い、ぐにゃりとしたサスペンダーを肩からかけている。

その男は、設計図書や積算書やらを、二本の指だけで信じられない速さで一心にタイプしているところだった。小さな電球の光が、彼の背中に黄色い輪を投げかけている。汗で濡れたシャツが男の両肩にへばりついている。

男がゆっくり顔を上げたとき、たまたまそのときロークが入ってきたのだ。男はロークを見ても何も言わずに待っている。男の年老いた目は疲れているようだ。何にも疑問を持たず、何にも関心がないようだ。

「キャメロンさんに、お会いしたいのですが」とロークは言う。

「ああそう?用件は?」と、男は、これといって挑戦的でも攻撃的でもなく、何の含みもなく訊ねる。

「仕事のことで」

「どんな仕事?」

「製図です」

男は、ロークを眺める。それは、随分長いあいだ、男がでくわしたことのない要求だったから。

やっと彼は立ち上がり、一言も言わずに自分の背後にあるドアまで足をひきずるように歩き、別室へ入って行く。 男はドアを半ば開けっ放しだったので、彼がのんびりと言う声がロークの耳に入る。

「キャメロンさん、ここで仕事したいというのが来てますよ」

ある声がそれに答える。年齢を感じさせない強い明晰な声だ。

「何だって、馬鹿者め。放り出せ、そんなの・・・待て!連れてこい!」

その年老いた男は戻ってきて、ドアを抑える。そのまま黙って頭をドアの方にしゃくり、ロークに合図する。ロークは別室に入る。ドアが彼の背後で閉まる。

ヘンリー・キャメロンが、調度品もないむきだしの長い部屋の端に置かれた机についている。まえかがみに座っている。両方の二の腕を机の上に置き、両手を自分の前で閉じ合わせている。髪と口ひげは黒炭色だ。そこに粗い糸のような白髪が混じっている。白いシャツを、肘のところまで折り曲げ着ている。むきだしの両腕は、いかにも硬そうで、重量感があり、陽に焼けて茶色だ。幅の広い顔の筋肉は締まっている。瞳は黒く若々しく生き生きしている。

ロークは、入り口で立ち止まる。長い部屋をはさんで、ふたりは互いに互いを見つめる。

ダクトから入る光は灰色だ。しかし、窓と窓のあいだの壁にかけてある絵に、ロークは気がつく。それは、この部屋のなかで唯一の絵だ。それは、いまだこの地上に建てられたことのない高層建築の完成予想図だ。

ロークの目が素早く反応する。彼の視線はその図に注がれたままだ。ロークは部屋を横切り、その完成予想図の前で立ちどまる。じっと立ちつくしたまま、その図を凝視する。

キャメロンの目がロークの動きを追っている。重いまなざしだ。キャメロンは、ロークのオレンジ色の髪を見る。

ロークは、片手を脇にたらして、その掌を図に向けている。ロークの指がわずかに曲げられている。急に動かなくなってしまったというよりは、何かを質問しようとしながら、何かを掴(つか)もうとしながら、その動作に移行する最中に凍りついてしまい、どんな動作をするつもりだったのか忘れてしまったという風情である。

「さて?」やっと、キャメロンは言葉を発する。

「俺に会いに来たのか、それとも絵を見に来たのか?」

ロークは、キャメロンの方に顔を向ける。

「両方です」とロークは答える。

ロークは、キャメロンの机の方へ移動する。ロークといっしょにいるとき、人は自分が存在していないように感じる。ロークは、それほどに他人に無関心に見えたので。

しかし、突然キャメロンは感じる。今、自分を見つめているこの若者の、物事を見抜いているかのような醒めたまなざしの中ほど、自分がリアルに存在したことはなかったことを。それは、他の人間の中にはキャメロンが見出したことがない類のまなざしだった。

「何の用だ」とキャメロンは、ぶっきらぼうに訊(たず)ねる。

「ここで、あなたのところで働かせていただきたいのです」ロークは静かに答える。

その声は「あなたのところで働かせていただきたいのです」と言っている。しかし、その声の調子は「あなたのところで働きます」と言っている。僕が決めたからそうなると、暗に言っている。

「ここで働く?」キャメロンは言う。ただし、声に出されていないロークの言葉に自分が答えていることには、彼は気がついていない。

「どうかしているぞ。もっと大きなところや、もっとましなところでは、君を雇わないのか?」

「ほかのどこにも行ってません」

「どうしてだ?ここが仕事を始めるのに、もっとも簡単だと思うからか?俺が誰かわかっているのか?」

「はい。だから、ここに来ています」

「誰に指図された?」

「誰にも指図されていません」

「よりにもよって、どうして俺を選んだ?」

「あなたの方が、よくそれはご存知だと思いますが」

「俺が君を雇うと思うとは、なんという厚かましい奴だ。俺が落ちぶれているから、俺をほめる奴がいれば、どんなチンピラにでも俺が気を許すとでも、思ったのか。君は、こんな独り言でも言ったか。『老いぼれキャメロンはもう終ってしまった奴だし、飲んだくれだから』とか何とか。そうだろう!そう言ったんだろう!『うるさいことは言えそうもない飲んだくれの落ちこぼれだろう』とか、そうなんだろう?さ、答えろ!馬鹿め。何をじっと見ている?そうなんだろう?ちゃんと言え!ちゃんと、そうじゃありません、とでも言い訳してみろ!」

「言い訳など必要ありません」

「前はどこで働いていた?」

「勤めるのは初めてです」

「何をしていた?」

「スタントン工科大学に3年間いました」

「ほう?優等生さんは怠け過ぎて卒業できなかったか?」

「退学になりました」

「大したもんだ」キャメロンは、こぶしで机の上を打って爆笑する。

「素晴らしいねえ!スタントン工科大学のしらみ取りみたいな連中からは落第させられたが、このヘンリー・キャメロンのところでは働くつもりとは!ここがゴミ捨て場と決めつけて来たな!なんで退学になった?酒か?女か?何だ?」

「これのせいです」と、ロークは言いながら、持って来た何枚かの図面を広げる。

キャメロンは、最初の図面を見る。次の図面も見る。それから図面の束の一番下にあるものまで全部に目を通す。キャメロンによって次から次へと自分が描いた図面がめくられる紙の立てる音を、ロークは聞いている。

しばらくしてからキャメロンは顔を上げる。

「そこにかけたまえ」

ロークは、そのとおりにする。キャメロンは、ロークをじっと見つめる。キャメロンの分厚い指は、ロークの図面の束をトントンたたいている。

「それで、君はこれがいいできだと思うわけだな?」とキャメロンは言う。

「ひどいしろものだぞ。言うに耐えないね。犯罪だな。見ろ、これを」と、彼は一枚の図面をロークの顔につきつける。

「見ろよ!一体全体、君は何を考えている?何にとりつかれて、ここにそんな案を接合させた?ただ小奇麗にしたかったからか?何かをいっしょにつぎはぎさせなければならなかったからか?自分を何様だと思っている?ガイ・フランコンか、君は。このビルを見ろ!馬鹿め。こんないいアイデアを持っていても、どうそれを処理したらいいか、わかってないな。とてつもないいいアイデアが浮かんでも、それを台なしにしてしまうぞ、君は!まだまだ勉強しなければならないことが、いっぱいあるぞ。わかっているのか、君は?」

「はい。だから、ここに来ています」

「それから、こっちときたら、どうだ!ああ、君の年頃に俺がこんなことができていたらなあ! だけど、なんでこれをこんなに無様(ぶざま)に繕(つくろ)わなければならない?俺ならばどうするかだな、君はわかるか?なんだ、これは?こんな階段なんかどうでもいい!こんなボイラー室なんぞ、くそくらえだ!噴水を作るときはだなあ・・・・」

キャメロンは、長いあいだ怒ってしゃべっていた。悪態をついていた。彼を満足させるような素描は一枚もなかったから。しかし、キャメロンは、それらの図面が、まるで実際に建設中のものであるかのようにしゃべっている。そのことにロークは気がついている。

キャメロンは、ふいに話を中断する。図面を脇に押し退けて、片手のこぶしをそれらの上に置く。そして訊ねる。

「いつごろ、君は建築家になろうと決めた?」

「10歳の時です」

「そんな早い時期に、自分がしたいことなどわかるはずない。嘘をつくな」

「僕が嘘を?」

「そんなふうに、見つめるんじゃない!なぜ、建築家になりたかった?」

「その頃は、理由はわかりませんでした。しかし、僕は神を信じたことがなかったので、建築家になりたかったのです」

「おいおい、わけのわからないこと言うんじゃない」

「つまり、僕がこの地球を愛しているからです。地球しか愛していません。僕は、この地上の事物の形が好きではありません。それを変えたいのです」

「誰のために?」

「僕自身のために」

「君はいくつだ?」

「22歳です」

「どこで、そんなふうなこと聞き込んで来た?」

「人から聞いたわけではありません」

「22歳ぐらいで、そんなふうな口はきかないものだぞ。君は異常だ」

「そうかもしれません」

「褒めてないぞ」

「褒められたとは思っていません」

「家族は?」

「いません」

「苦学したのか?」

「はい」

「どうやって食ってきた?」

「建設工事現場で働きました」

「今、いくら金が残っている?」

「17ドルと30セントです」

「いつ、ニューヨークに来た?」

「昨日です」

キャメロンは、こぶしの下の図面の束を見つめる。「けしからんな、君は」キャメロンの声が、さっきより静かになっている。「全く、けしからん」キャメロンは前屈みになりながら、突如うなるように言う。

「俺が君にここに来るよう頼んだわけではないぞ。製図係りなどいらないからな。製図するようなものなどないからな、ここには。俺のやる仕事すらないのだからな。バウアリ街のセツルメント[注:貧民街に社会福祉事業団によって建てられた厚生施設]から来る連中にやってもらう仕事もないぞ。このあたりで、馬鹿な妄想にふける奴が腹を空かせるのなんか見たくない。責任なんてまっぴらだ。俺が頼んだわけではないからな。君のような物好きに再び会うとは思わなかったぞ。もうそういうことはおしまいにしたいんだ、俺は。何年も前に終ったんだ。ここらにいるまぬけな連中といっしょで、いいんだ。充分なんだ、俺は。そいつらは何も持ったことがなくて、これからも何も持つことがない。どうなろうと大差はないんだ、その連中にとっては。俺には、そういう連中だけでいい。君が、なんでここに来る必要がある?自分をぶっ壊すためか?それはわかっているんだな、君は?ならば手伝ってやるさ。俺は君の顔など見たくない。嫌いだ。君の顔が嫌いだ。君は、苦しむことなど金輪際ない自己中心主義者の顔をしている。君は生意気だ。君はえらく自分に自信があるな。20年も前の俺ならば、大喜びで君の顔にパンチをくれてやったろうがなあ。明日の9時きっかりにここに出勤しろ」

「わかりました」

「週15ドルだ。俺が払えるのはそれだけだ」

「わかりました」

「全くけしからんな、君は。どこか他のところに行くべきだったのだ。他のところに行ったら、承知しないけどな。君の名前は?」

「ハワード・ロークです」

「遅刻したらクビだぞ」

「わかりました」

ロークは、帰ろうと、自分が持ってきた図面の束に手を伸ばす。

「そこに置いておけ!」キャメロンが大声で怒鳴る。「さあ、もう帰れ!」

(第1部(6) 終わり。続く)

(訳者コメント)

ここは、ロークの唯一の師であるヘンリー・キャメロンが登場するので、訳しているとき非常に嬉しかった。

ヘンリー・キャメロンは私が愛する登場人物のひとりである。

孤高の建築家キャメロンのモデルは、明らかにルイス・ヘンリー・サリヴァン(  Louis Henry Sullivan: 1856-1924)である。


アメリカ建築の三大巨匠のひとりだ。

シカゴの高層ビル建築の草分けとなった人物であ

キャメロンの設計によるディナ・ビルのモデルとなったビルは、サリヴァン設計でマンハッタンに今も残っている。


Form follows function. 形態は機能に従う。

これは、キャメロンの建築哲学であり、ロークの建築哲学だが、もとは、サリヴァンの言葉だ。


(サリヴァン設計のシカゴのExchange Buiding)

シカゴにしろ、マンハッタンにしろ、その高層ビルの風景は素晴らしい。

今なら上海の浦東地区かな。

このセクションで展開されるキャメロンとロークの会話がいい。

10歳で建築家になることを決めたロークの天才らしい早熟さ。

神を信じていないロークにとって、地上で起きることの全ては人間に責任がある。

地上が美しくないなら、人間が美しくしないといけない。

他の誰も地上を美しくできないのだから、

地上を美しくするために、ロークは建築家になる。

この世には、いろいろな職業がある。

神に最も近いことをする人間の職業を挙げろと言われれば、それは建築家ではないだろうか。

前のセクションで描かれた打算で繋がるピーター・キーティングとガイ・フランコンの関係と対照的なロークとキャメロンの関係。

建築への情熱によって結ばれた同志であるロークとキャメロンが出会い語る場面は、この小説の中でも、私が最も愛するもののひとつだ。

キャメロンのイメージは、私にとっては晩年の三船敏郎である。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第1部(6) ヘンリー・キャメロンとローク” への2件のフィードバック

追加

  1. キャメロンはロークの辿るかもしれない未来の姿って感じの人ですね。
    ローク、キャメロンの事を「真実を追求する人」だとは思ってます、キャメロンは足踏みしている…ロークの加入でどんな道を歩くのか?
    ロークはキャメロンの状況を知りどう動くのか?
    興味が湧いてきました。

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